おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

漸進的横滑りをする冬の終わりへーあるいは「#春からおぺんぺん大学文学部仏文学科ヌーヴォーロマン専攻」について

 この怪文書ツイッターハッシュタグで、

という書き出しで始めてみたいのだが、さもこんな題でいきなりツイッターなんてミーハーみたいなノリで書き出してしまうというのがどれだけ浅はかかしらん?うふ?うふ?と吐き気がしたのでペンも匙も根気も投げてしまったが、そうは言ってもおぺんぺん大学という架空の大学には仏文科があり、ヌーヴォーロマンを研究している専修があるらしい。

https://twitter.com/atk27kan/status/1361178022322204684?s=21

 そんなニッチな大学を高校3年の頃見つけていたら私は今頃こんなことをしていないだろうし、シュルレアリストだと名乗る(もちろん嘘だが)(シュルレアリストに失礼だが)こともなかっただろうし、彼氏持ちの女と寝ることも、卑屈な同級生と日がなトランプを混ぜ合わせることも、往復三時間もかけて通学することもなかっただろうなと思うのだ。わたしは次の春が来るちょっと前、少しでしゃばる形でようやく一人暮らしという自立の初歩を踏んだわけだが、忙殺されていく時間と、もちろん自力で行わなければならない家事自炊、それによって文学を嗜むという高尚であるいは理解のできぬものからすれば低俗な世捨て人のする真似とも貶されかねない、これまでの愉しみは、かき消されがちであった。

 

 初めの一、二週間はそのようなものだったが、三週目になってあらかたの道理も分かり、およそ自分の中でのルーティン、システムができあがってきたところで書を読むことの自身の癖がぽつぽつと戻ってきているわけなのだが、そういったタイミングに呼応する形で、「#春からおぺんぺん大学文学部仏文学科ヌーヴォーロマン専攻」というハッシュタグツイッターでみかけたのだ。

https://twitter.com/atk27kan/status/1366309307906592770?s=21

ツイッターハッシュタグで」という文句もどのように発音してもらうかでこの文書のくだらなさがわかるだろうが、ツイッターでの「ツイ」でのけぞるように語尾を跳ね、「ッター」がそれに乗り込む、いわば「ツイ」というボードに「ッター」がサーフィンよろしく立ち上がり、文章という海の波に乗り上げて欲しいのだが、すぐそばからハッシュタグというポテトをマッシュして揚げた料理とタグを並べた、「奥さんそれは、ハッシュタグじゃなくて番号記号ですよ、ほら受話器とかに*と一緒に0を挟んどるやろ、卑猥な*によ」と言いかけたくなるが、どうもハッシュタグとはツイッターではツイートの文面を括らせるらしい。括られてたまるものか、うんしょー!うんしょー!さあ力みなさい!産むのよ!力めばあなたも独立国よ。うふふ。

 

 

セッターの伊藤

 

 

 ばるむんくヨシオくんはどんな女子がタイプときかれて男殴ってそうな女と答えた。ぼくらは彼には被虐癖があるのかと疑ったが、彼が暴力の世界に足を踏み入れているとは思えない。温厚なばるむんくヨシオくんがそんな趣味を持っているなんてしーしゃキヨコちゃんが知ったら鼻血を出して白目を剥いておしっこを漏らすに違いない。小学生の頃、2時間目を受けた後に待ち受ける長い休憩時間に雨のせいで外に出られない男児女児がカーテンの中に潜り込んで話したことはいずれ時が流れて覚えているものではない。だがセッターの伊藤とのちにあだ名されるこの頃からヤンチャだったキョウヘイはばるむんくヨシオくんが放った男殴ってそうな女の子という表現がいままさに目の前に現前した、そのときにあの肉まんのような、あるいはビーバーのような温厚なばるむんくヨシオくんの表情を思い出すのだった。

 

 室外機が所狭しと壁に引っかけられ、ダクトが蛇の群れのように行き交う路地裏にキョウヘイはセッターを一箱吸うまで出られない呪いをちょろまかした友達の彼女である占い師にかけられていた。この路地裏はおもに表にあるキャバレーや飲み屋からあぶれた頭を冷やしたいどうしようもない奴が流れてくる卑小な街の片隅の憩いの場に数えられる。この飲み屋の店長がセッターの伊藤のパトロンで灰皿は犬の餌を入れるプラスチック製のカップだった。セッターの煙は向かい合った室外機の群れに霧散され、キョウヘイはそのかき消される煙の筋を虚しく眺めていた。この通りでよく尺八をしている身体の太い樽のような男女を見かけることがあるが今夜は幸いそれらしき怪しいそぶりをするものは一人もいない。溝の排水にたまに刻んだネギが流れてくるばかりで特に珍しいこともなかった。パトロンは休憩に飛びだしたセッターの伊藤がまさかあの占い師に呪われていることも知らずに猫の額ほどの窓から覗き込んで手招いている。戻ってこないとお前で唐揚げを作るぞと言っているのだ。占い師は大学を中退してタロット占いで生計を立てていてセッターの伊藤の高校時代まで一緒だったじんばにヒデユキが大学に入学した時に知り合って寝た女だ。ばるむんくヨシオくんが男殴ってそうな女と答えたあのとき、じんばにヒデユキは小学生らしからぬ生々しい嗜好を吐いたと記憶しているが不思議なことにキョウヘイには何故かよく覚えていなかった、それほどじんばにヒデユキの今の彼女の占い師が特異だった。このことを今日シフトに入る前、じんばにヒデユキに紹介された。彼らの性生活において魔法陣を模したシーツが性交渉には必須であり、剃刀や果物ナイフでも何でも構わないがとにかく刃物で互いの肌のいずれかに傷をつけ、垂れた血をたがいの性器と口に塗るのだという。それを馬鹿にしたキョウヘイとつるんでいるヒップホッパーの友人とセッターの呪いをかけられた。キョウヘイの頭にはその儀式めいた性行為よりも突然去来した、ばるむんくヨシオくんの言った「男殴ってそうな女」とはどんな女だということにずっと囚われていたが、友人は占い師の言うことに耳も傾けずとっととこの街から飛び出した。そして血まみれになってぶっ倒れて死んだ。

 

 吸い潰したタバコを踏みつけ揉み消し、ツイッターで千葉雅也にブロックされてしまったことを確認すると路地の付け根から赤い服を着た女がひょろひょろと現れた。ヘルメットのようなボブカットをしてキャミソールを赤黒く塗ったその服一枚の女はながい足を交互にキョウヘイの方へ進めるたびに裾から陰部のタトゥーが見え隠れした。キョウヘイはギョッとして慌てて腰を引いたがその女の切り揃えられた前髪の下にある瞳は困惑の男の表情を余すことなく捉えていた。獲物を見定めるというよりかは、すでに獲物を自らの手に捕らえたと言わんばかりにその女は俯きざまに微笑み、キョウヘイにねえお兄さんと猫をあやすような口ぶりで声をかけた。

「ねえお兄さん、なあにしてるの?」

「廊下に立たされてるんだ」

「宿題でも忘れちゃったの?」

「どんと大きな宿題さ」

「へぇ〜、お姉さん手伝ってあげようか」

「人手があっても足りないくらいの量さ!」

 キョウヘイの声は裏返った。テンションが狂っていた。トーンなどという声の質をあれこれ変えてニュアンスに乗せようとする自身の癖はうまく機能していない。その女は生臭かったのだ。生ゴミの収集場に漬物にされていたのかというほど、などではなく、いままさに血潮の雨を浴びてきたばかりに、いわば生物を蹴散らしてきたばかりという匂いだった。いかにも生物的な、生々しい匂いだ。よく見ればキャミソールのようなワンピースのようなこの薄着一枚はホンモノのキャミソールであり、その赤は返り血を浴びたようにしか見えない、というかたっぷり他人の血を汲んだ浴槽に飛び込んできたんじゃないか?キョウヘイはガクガクと震えているのは自分だと気づかなかった。地震? え? 地震? 揺れてます? とこの女に聞いていた。女は? やだ、揺れてるの?やだ、怖いお兄さん、バカにしないでよ、と腕を掴まれて揺すられた。

「ねえお兄さん!私とどっか別のところ行かない?」

「…た、た、た、た、たたたたたたたたたたたたとえばばばばば」

「えいがかかかかかかかんとか」

「ぇぇええええええええいぃぃが?」

「かん」

「おん」

「はん」

「な?」

「やだ?」

「いや」

 もうすでにレイトショーも終わりがけの時間に過ぎない気がする、そうとも考えられる思考をこのキョウヘイは持ち合わせていない。だいたい近場にはなく、この掃き溜めのような歓楽街を抜け、川を渡り、住宅街を縦に割るように進み、さらに丘を越えた郊外に大手商業施設に寄生した映画館しかない。車もないしタクシーを呼ぶ手立てもその金もない、おまけにセッターの呪いにかけられているキョウヘイに映画に行くという選択肢はない。

「えええええいが、映画館こんなとこにあったかな」

「あるわよ、私ん家の向かい、映画館なの」

「きききき君ん家、この辺なの?少なくともこの辺りの、この区画なの?」

「なんで?なわけないじゃん、こんな掃き溜めで生活できますか、もっと良いところ、住んでるわよ」

「じゃじゃじゃじゃじゃ、こここここここから動くわけ?」その姿でかい?キョウヘイは18本目のセッターを吸い始めた。

 もうヤニクラで頭は回っていないし、漏らしては乾くを繰り返しているせいでズボンの中身はひんやりしている。なぜ瞬時に乾いているか初めのうちはわからなかったが室外機の生暖かい風が路地裏を無数に行き交い、独特の空気の通り道が出来上がり、すぐさま乾くらしかった。

 キョウヘイは自身のペニスがタバコと鮮血で役に立たずにただ放尿し続けているのをこの女に知られてしまうのがもはやどうでもよかった。女はあまり気にしていないらしい。たしかに時々彼の足元から膝下、そして股の付け根に目を走らせていたが女はその都度小さく微笑んだ。

「すまないが、あと3本、タバコを吸ってからでいいか」

「なんでよ」女は苦笑した。作り笑いだ。きっと心の内ではーもっともこの女に心があるのかどうとかは別とするべきだがーチンタラしている男をさっさとしばき倒して切り刻んで港に投げ捨てたくなっているに違いない。

「このセッター、吸い切らないとこの区画から出られない呪いにかけられているんだ」

「はぁ、なによ、流行りのアニメ?」

「いや、本当なんだよ、友達の彼女がさ、占い師?やってんだよ、そいつを馬鹿にしたらさ、呪いかけられちゃった」

「でまかせでしょ」

「いやあの一緒にからかったやつがさ、タバコ吸えなくてさ、んで門限あるから帰るって行って走り出してさ、輪切り橋ってあるじゃん、この先のさ」

「うん」この路地の表、歓楽の店がひしめき合う通りの果てに、この区画の仕切りとなる人工の川を渡る橋のことである。

「あれ渡った瞬間さ、急に倒れてさ、それから何度も、痙攣するように身体を、押されるっていうの、押し出されるっていうのか、何か見えない空気玉みたいなもので体をバンバンされてさ、それで死んじまったんだよ、そいつ」

 女は恭平の胸ぐらのポケットからセッターの箱をむしり取った。そして残りの2本を掴んで箱を落とした。唇の真ん中でそろえて咥えて見せて、指をタバコの先で鳴らした。火がついた。ガスコンロみたいに女はぢぢぢぢぢと言った。前髪焼けたとかつぶやいた。

「あー、あれか、それか」

「え、なに、手品」

「これでもうこの街から出られるよね」

「いや、俺が吸わないとダメなんだよ」

「え、いいよもう、私が許す」

「いや、そういうもんじゃないでしょ」

「セッターなにこれぇ、うげぇ」

女はむせ返り、加えた2本を吐き出した。まだ先に煙が立つ2本のタバコは黒くケロイドじみた路地裏の地面にカタカナの「ハ」の字に並んだ。

「いくわよ、映画館」

「え、ちょ、困るんすけど、細切れになるんすけど、血まみれになって死ぬんすけど」

「それ、わたしだから」

「は?」

「わたしがヤったから」

 

 キョウヘイの友人のヒップホッパーはニートTOKYOにも何本か動画が残るその手の界隈では名が売れ始めた男だった。枝野カツアゲcilという全体的にアンバランスな芸名をして半ばノイジーなEDMに性的侮蔑用語を歌詞に載せて活動していた。パーカーの袖をむしり、ズボンの右足の裾を股の付け根まで切り取っているのが彼のトレードマークであった。額には鉤十字を書こうとして左右反転した、つまり地図記号の寺社マークが付いていて、そこから寺に修行しにも行った。キャベツの茎を集めるのが趣味で、鍋いっぱいに集めて煮立てて合法ドラッグを作るんだと言って週に一度キャベツスープのパーティを開いていたが誰も行くことはなかった。キャベツ農家の一人娘が恋人で、いずれ農家を継ぐことになるだろうと一晩で5回戦も生でヤったと自慢げに話していたが、かれこれこの一年で10回はその話を聞いているが未だに妊娠したと聞いていないらしい。誰もが枝野カツアゲcilは種無しだと言っていた。だからみんなして奴の誕生日になると園芸店や百均のレジのそばにある家庭菜園用の野菜の種子を買い揃えてプレゼントする。奴は将来の予習だと住まいである駅近のオフィスビルの屋上に間借りしている小屋で育てているらしいがどれも都市の烏に食い荒らされているらしい。

 そんな枝野カツアゲcilはこの血まみれ女と関係があったらしい。女はわたしが枝野カツアゲcilを殺した。タップルとかいうマッチングアプリで知り合ったと言う。女は透明マント機能を使っているから枝野カツアゲcilを刺し殺しているわたしがあなたには見えなかったといった。あんたは何を言ってんだとキョウヘイは返したが、わたしが視覚化できているってことはあんたもタップルやってんでしょ、お盛りねと笑った。キョウヘイもマッチングアプリをしていた。月額の費用が馬鹿にならないのでやめていた。女はわたしはじんばにヒデユキの彼女のタップルのアカウントだと名乗った。言っている意味がよくわからない。ヤニクラで変な妄想を聞いていると錯覚しているんだとキョウヘイは考えた。女は透明マント機能で地下鉄の切符も映画館のチケットをちょろまかした。キョウヘイは自費で乗り込んだが地下鉄はもう走っていない時間のはずなのに一両編成でふたりを迎えに上がった。上半身は駅員の姿をした女が運転するその車両には京都大学の卒業式の帰りだと豪語する金閣寺のコスプレをした一般男性が13人いた。修行僧の形をした男が焼かねばならぬ!と叫び13人にガソリンをまいてライターを付けたところで映画館のある駅に着いた。駅の改札からそのままスクリーンを隔てる扉が並んだ廊下にはいり、9番の戸を透明マントに身を包んだ女が入った。女は恭平に気を遣って首だけ透明マントから出していた。おかげで生気のある生首が宙を浮いていた。

 席は誰ひとり座っていない。60程度の座席が無機質に静かに並んでいる。女は後ろから五番目くらいの、真ん中に座り、マントを脱ぎ、血まみれのキャミソールも投げ捨てた。全裸でスクリーンを凝視している。キョウヘイが隣に座ろうとしたら他を当たってちょうだいという。一つ上の列の、女から見て左斜め後ろに座るとそうじゃないと言う。この部屋じゃないとこで映画見てよと言う。キョウヘイはよくわからないと呟きながらこれもセッターの呪いもといヤニクラによるものだと向かいの4番シアターに入った。ところが4番シアターの中央の席にもあの女が全裸でスクリーンを凝視している。おまけにスクリーンにはさっきの9番で、全裸でスクリーンを凝視する女が映っていた。キョウヘイはあわてて9番に戻るとスクリーンには4番シアターの女が映っている。あれれと言っている間に女はみるみるうちに画面をはみ出して、ドロドロに溶け出した。そして静かに形を整えて占い師の姿になったり、白石麻衣になったり、橋本環奈になったり、真矢みきになったりして最後にキャメロン・ディアスになったかと思うとパチンと弾けた。9番にいる女は白目を剥いて泡を吹いている。スクリーンには大きくタップルのロゴが映っていて、youtubeの広告でくどいくらい出てくるあの女優の「タップル」と言う声が何度もハウリングして音割れして流れた。キョウヘイは慌てて9番シアターも出て廊下に飛び出すと奥から轟々と燃える人型の金閣寺がぞろぞろ現れて壁を溶かし始めていた。反対側へ進もうとしたら床に草が生えてきて、むしられた草が山盛りになって枯れていた。ほんのりむせかえるほどのタバコの匂いがする。

 その時キョウヘイはグッと草山に向けて引っ張られた。引っ張られたと言うよりかは、まるで掃除機が抜け毛にするように吸い込まれた。つられて人型の金閣寺がすぐそばまで近づいてきた。先の空気が吸い込まれたことで廊下は腐食したように黒ずみ、焼けだし、そして山盛りになった草にも引火した。草の中に突っ込まれたキョウヘイは自身の尻にも火が回ったことを確かに感じたが酸素が進路の先へズンズン吸い込まれているのを覚えた。火は草を燃やし、煙で満たされる。すぐにキョウヘイは煙で肺を満たし、ハイになって死んだ。

骨糸(こついと) [創作]


 朝を寝過ごして、午前中をゆるやかに布団から出たのか出てないのかと可能性の縁に体を縛りつけ続け、十一時ごろようやく顔を洗い、コーヒーを沸かしてふと意識を鮮明にさせるともう正午を過ぎていて、出かけることが億劫になってしまったニライはベランダに植生している正体不明の観葉植物の蔓のひろがりを窓越しに見つめた。
 すっかりベランダの床面は緑色の細い管に芝生じみた青々さでいっぱいになっている。隣や上下の部屋にまで蔓が伸びているのか気が気でなないが、不思議なことにニライの借りたこの部屋の分しかひろがりを見せない。
 冬になれば茶色にあたり一面枯れ草になると見ていたが彼の部屋を訪ねた国枝マミの予想通り、次の春もこのままの調子で来てしまいそうだ。
 ニライがこの部屋を越す前に一緒に暮らしていた女が帰ってこなくなって、それから見たことない男が彼女の荷物をあらかた留守中にかっぱらって行った。ニライは見ていなかったが大家がラグビー選手みたいな男が二、三人来たと言っていた。もちろんニライの使っていたIHコンロもパイプベッドも小さな冷蔵庫も拝借していった。彼女のドレッサーもナイトテーブルもなくなっていた。ニライの読みかけの本が辺りに散らばっていた。
 引越しを目前にした晩に、ニライが眠ろうとしたところで姉が郊外からの最終列車で冷やかしにやってきてニライの住む街を夜道でつないで迎えに行くはめになった。姉は地元のスーパーの袋をぶくぶくに膨らませたものをふたつ連れてきてそのどちらもニライに持たせた。
「もういっぱいいっぱいなんしょ」
「なにが」
「なにがって、あんた。いっぱいっしょ」
「ようわからん」
「ハズレひいただけやっちゃ」
「こっちがハズレだったんだよ」
「どっちもハズレとったやろ」
「なにがわかる」
「だって、そうっしょ、どこで繋がってんかわからんふたりしとって」
「まあな」
 姉がスーパーで買ってきたものは、どれもつまみのそれで荷造りを済ました空っぽになろうとしている部屋に人に振る舞うものは作れないから悔しくも都合が良かった。
「またおとんと喧嘩した」
「はぁん」
「わたし、あんたとちがって独りで生きてけんね、そう言ってやったん、したらだったら出てけって」
「それは実家暮らしがいう言葉じゃないわ」
「それな。いまつっちーん家に転がり込んど」
「つっちーって土田氏?バリバリ地元やん」
 土田氏はニライの同期で高3のころクラスメイトで窓際の席で、詰襟の制服の袖や襟縁からイヤフォンを通して音楽を聴く勇気があるのかないのかわからない奴だった。窓際の先に町並みが見えるわけじゃなくって中庭があるだけだった。町並みが見えていても特に綺麗でもなかった。
「きっと妬いとんね、ぬはは」
 姉はそうけたけたと足を揺すって笑った。姉は途中でやり投げている残りわずかな荷造りの山から本棚の肥やしになっていた文庫本の束を手に取って、酒を口に含みながらつまみを触れた手でページをめくった。汚れるやろと注意するとこれ読んだん? ときいてきた。
「なにとったん」
「ふぃ、ふぃねがんず、なんこれ、あー、フィネガンズ・ウェイク
河出文庫の三冊分冊、ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク」。
「なわけない」
 右手に3本目のビール缶を取り出し、左手で第二巻を開き、トレンチコートやカーデガンの温床と化したソファに姉は身を投げた。こぼすなよとまた注意した。
「朗読したげよか」
「やめとき、できたもんじゃない」
 ビール缶を高く挙げて姉の細い喉が規則的に運動する。読めたもんじゃない。
「あんたさ」ソファに上体をまかせ、ずり落ち掛けのそれぞれ手にしたものをあらぬ方は放り、脚も宙にぶらつかせ、力なくこぼれたように姉は口に出す。あんたさ、いつまでも勘違いつづけんねんやん。
 あの部屋を出て次の部屋に移り、荷ほどきを途中にしてニライは簡単な旅行にでも出かけようかなと呑気なことを考えていたが、すぐ億劫になってしまって、うだうだしていると例のウイルスが始まってしまった。新しい部屋は前回の部屋よりも簡素な作りで、二階建てのアパートの一階の家賃の安い、最寄駅が二つ遠くに移った。自転車置き場が有料じゃない良心的な駅だが、歩いて5分くらいだから使う機会がなくなりそうだ。実家に自転車を返しに行ってもいい。
「混乱すると思うけど今は」姉の声は前に訪ねてきた晩よりも芯のとおった聞き取りやすいものだった。ちょっとしたら慣れんだわ、電話を切ったあとあたらしい部屋になんも残響がつかない。音もしみ渡らない。
 仕事帰りに駅のホームで他人の空似を見かけた。とりまきのひとりがよく見覚えのある、いわゆる特徴的な顔立ちでニライにはピンときた。彼とその人とのつながりはないから相手がどう感じられるのか知れない。他人の空似と目が合うかもしれないが、あっちは意識的に目を逸らすにちがいない。

 スーパーの従業員は目を細めて、床に散らばった小銭をひとつひとつ手を伸ばすおっちょこちょい客をぼんやりとした目で見つめている。きっと彼も、小銭をぶちまけた男にもいえるが疲れている。大丈夫ですか。従業員の声は必死に小銭を拾う彼には届いていない。
 暗がりの奥でムシャムシャと小銭のカビをしゃぶる音がする。音がするだけで見えるわけではない。開けっ放しの肉のコーナーの加工室へ通じるドアのむこうの真っ暗な廊下から聞こえてくる。
 国枝マミにスーパーに入ってるとラインを入れ、ニライは加工肉コーナーで試食のウィンナーを焼いているのを見つけ、ひとつもらった。考えなしにはじめに加工肉のコーナーに行くのは不自然だろうか、そうではない。
 店内を駆けめぐるのは流行の女性アーティストであれば男性ユニットのアイドルグループでもある。どれもメロディを取り込んだ加工がされ、彼らの声は聞こえない。
「すいません、この曲はなんですか」
 ニライの質問に従業員の手は止まった。わかりやすいくらいの困った顔を彼女はした。ウィンナーが転がりたいとぷすぷす言い始めている。えーっと、なんでしたっけ、とようやく口を開く。すでになんだがどうでもよくなる。このウィンナーおいしいです。ニライはそう答える。
 ウィンナーの袋をひとつ手にしたまま籠を探すと曲調が変わってサランラップや排水溝用のネット、ビニル袋のコーナーに迷い込んだ。喉が締まる気がする。喉が締まる。しめる。しめ。しめられる。しめ縄。正月のしめ縄、今年の正月、部屋を移ってすぐに買った。アパートの玄関に取り付けてみた。吸盤のついたS字フックを使った。三日でコンクリの廊下に落ちていた。北風が吹くと柄を抜かれたホウキに見えた。玄関扉は金属製だから今度はマグネット付きのS字フックを台所から持ち出して取り付けた。四日目にフックだけが扉から突き出ていた。

 学生の頃よく使っていた金山駅の北口に出るとすぐ右手に、理科の教科書で昔習った、川の流れによる岸辺の削れ方が内側と外側でちがうように、ほぼL字の急カーブを含んだ歩道が横断した先に待ち構えていて、その足元からツリーを模した外壁を駅の方に向けた6階建てのビルがある。横断歩道を待つ人間のいくつかにそれが木をかたどったものだと気付くものはいるのか、それほどに道ゆく人は忙しなく、何もかもを見て、何もかもをみていないようだった。そのビルから向かって右側のバス停がいくつかある歩道を進むと先のビルの隣に、デニーズが二階に入ったビルがあって、よくここでニライの同級生はここに入り浸ったらしいけど彼とイウラはチェーン店を嫌って(もちろん大津通りを挟んだ向かいのマックにもあの頃は入らなかった)いたから入ったことはなかった。
 大津通りの歩道でまたも信号待ちをしていると通りに面した例のマクドナルドの二階にあるカウンター席にイウラがいた。マックの隣のファミリーマートから出てきた女と目があった気がしたが、きっと気のせいだ。金山駅からの道とJRの中央本線に沿って緩やかなカーブを描く道が、大津通りにぶつかる、丁字路の、一つを上下反転させて上辺の横線をややずらして重ね合わせた重ねた歪な交差点は一本横断歩道を欠いている。金山駅からのミスドの隣の交番を横目に、喫煙者の集まり、パチンコ屋と来て、そのまま大津通りを渡ることはできない。一度デニーズの前に渡って、それからマクドナルドとファミリーマートのある方へ渡らないといけない。だからニライにはツリーのモニュメントの前のL字の道を渡るクセがみっちりついていた。
 イウラの苛立っている様子は信号待ちをするニライにもはっきりとみて取れた。彼の足元で病的なほどに揺すられる足は全面禁煙であろうマクドナルドのカウンターでは処理し切れないだろう。
 信号が変わってすぐにニライは店へ駆け込み、どこに二階へ上がる階段があるのか探した。横断歩道の黒だけを踏む習慣は彼の意識の外にある。目があった気がした女はニライの前を歩く中年に道を譲るように進路をやや右斜前方に移したことでニライの正面に現れたがニライは二、三度彼女の服装を見たのちにマクドナルドに視線を移していた。昔付き合っていた女に空似していたのか、だいたいよくある格好をしていたから無理もない。胃が締め付けられるようなむかつきを覚えた。二階に上がる階段が見当たらず、つきあたりの注文カウンターにいる外国人店員にきくとそれはホテルのフロント前のことじゃないかと答える上司を呼び、彼の言葉を復唱した。ニライはありがとうといい、ホテルの入り口を探した。ニライはもちろん金山が初めてではないが、今まで二階がホテルの敷地だとは知りもしなかった。
 航空写真を見てもらうとわかるが、JR中央本線の橋までのこの大津通りには北にはクリスタル広場が地下にある栄駅の交差点があるし、メルサがあり、三越があり、ラシックがあり、パルコがあり、矢場とん矢場町本店があり、大須の赤門があり、三松堂書店があり、名古屋テレビ放送いわゆる「メーテレ」があり、日本特殊陶芸市民会館があり、カニ本家があり、松屋が一階に入ったビルがあり、ニライやイウラが先輩に奢ってもらった定楽屋の入ったビルがあり、アニメイト、金山プリンスホテルマクドナルド、ファミリーマートカラオケボックス、ローソン、ブラジルコーヒーとある。JR中央本線の橋を渡り、東海道本線名鉄本線の上の橋を渡ると居酒屋が軒を連ねているが、さらに南下すると熱田神宮があり、アイシーメイツがあり、伝馬駅の真上を過ぎたあたりから県道225号線になり、新堀川を渡り、山崎川を渡るあたりから頭上に名古屋高速4号東海線が走り、やがて名古屋半田線となり、西知多産業道路につながっている。

 松屋のビルと定楽屋の入ったビルの間が航空写真では更地になっているが、ここに今は見上げるほど高いパチンコ屋があって、イウラの知り合いの合田という男がいりびたっている。合田はイウラが大学時代に出入りしていた「キューバ音楽研究会」の会計の役をしていた。金山や栄の繁華街でキャッチャーのバイトをしていたが、半グレかチンピラに絡まれて路上で刺されて中退した。「キューバ音楽研究会」と言っても誰ひとりキューバに行ったことはないし、聞いたことがないと答える部員がほとんどだった。近年の邦楽におけるブラックミュージックの影響について延々と研究する者や、シティ・ポップを軽蔑する曲で挑発し続けて名古屋駅前の路上演奏で職質される者、亀島のピンクザウルスで買ったローターをギター弦に当てつけてタッピング奏法する者、ベースひとり、ドラムふたりのスリーピースバンド(彼らはスリーピースバンドと言い張った)組む者たち、プログレやサイケ風の曲をひとりで作り続ける一匹狼、口を楽器にする者、楽器を持たないで感想を言うだけのもの、そして何もしない者がいた。
 イウラと知り合ったのはこの何もしない部類の合田と、合田のTwitter界隈にあるサイケデリック、テクノジャンキーのヤムオの紹介で参加した「キューバ音楽研究会」が月一で開く音楽ディスコの会合の場でニライがYouTubeピンクフロイドの「夜明けの口笛吹き」を聞いたことがあるとつぶやいてしまったことがきっかけだった。金山ブラジルコーヒーでほぼ毎週日曜夜にあるライブの常連だったイウラを連れて合田がピンクフロイドで「狂気」や「原子心母」じゃなくって「夜明けの口笛吹き」をあげるって同じ匂いがするなとニライをもてはやした。終始イウラはワンコインドリンクで頼んだモスコミュールを手にしたままその長い前髪の下から細い目でにらんでいた。音楽や文学、映画を動物的に貪るどれも中途半端なニライが、マシンガンのように吹き出す合田とヤムオのピンクフロイド論争にビビっているのを、イウラは気づいているらしかった。会場は背の高い肘をついて話し合うくらいの小さな丸テーブルがまばらにあるだけで取り付く島のない連中は流れてくるEDMに思い思いに体を揺すってヌルヌルうごめいていた。熱気というよりかは気怠げさが会場の空気を覆っているようにニライは感じた。それは単にアルコールが要因であることは察しのつくものだがまだ一口も手にしていないプラスチック製のコップの中の炭酸が気化するようにアルコールが空気中に気体となって放出されているんじゃないかと感じた。もしかしたらクスリでも散布されているかもしれない。ニライにはもうどうでもいいことだった。
 合田がDJに指を鳴らすと米津玄師の「パプリカ」と君が代、それからグリーンデイの「アメリカリディオット」の再編集remixが流れ始めた。「ハレルヤ、花が咲いたら」の一節が反復して「アメリカリディオット」のドラムをつなげて君が代ハウリングして迫ってくる。ニライにはそのセンスがよくわからなかった。会場の地毛からかけ離れた色鉛筆のパッケージみたいな鮮やかな髪の毛をした露出の激しい連中は、どこから出しているのかわからない猿のような声を上げて、伸びたり縮んだりして踊り続けていた。イウラは表情筋が死んでいるのか、顔色も変えずにモスコミュールをあおってニライを見つめていた。米津玄師のようにすらっとしたイウラは小顔を膨らませて酔うこともない。酒が強いのかときくといや酔うほど飲まない。女が欲しくなるから。そう小さな声で答えた。そこまで彼がニライに近づいて耳打ちするように答えたのだ。彼は離れ小島の丸テーブルに、踊り狂う連中を縫うように抜けて向かい、その上であぐらをかき始めた。背はピンと伸ばしチベットの修行僧の如く静止する彼がニライには神々しくうつった。黄色い薔薇柄のポロシャツに丸メガネ、細身、幅の広いジーンズにクシャクシャの無修正の髪のイウラ。キモオタのコスプレを悪ふざけでしてるニライとは大違いだった。
 おれはぁあ、と合田がニライをひっつかんで説教を垂れた。おれは刺されてから死にかけてから、音楽に身をやつすことにしたんだ。「あそび、まわり」の一節が反復するDJの手さばきが彼の言葉をかき消した。イウラにその時のことを話すと今やつはパチ屋に身を入れている、と短く喋りだした。
 彼は素直だが特に誰もが背けることに短く言い放つクセがある。

 暗がりでしゃぶる音がするのは、そうではなくともきっと咀嚼音に近いものか。だいいちスーパーはどこもかしくも逃れようのない照明が頭上からついていて暗闇は見当たらない。国枝マミが見当たらない。早々にお惣菜コーナーにいるか、缶ビール類の棚にあるかもしれない。
暗がりのしゃぶる音がだんだんと「夜明けの口笛吹き」5番目の「Pow R. Toc H」の「ぶん、ちちっ! ぶん、ちちっ!」の後に続く、「トイトイ! トイトイ! トイトイ!」が脳内再生されて頭が痛くなった。この曲に歌詞はない。「トイトイ!」
 明日が国枝マミの夜勤だっただろうか、明後日だろうか、昨日だったか。ウィンナーひと袋とビール缶の6個まとまったものを持ってレジの方へ行くと横に7つか8つずらりと並んだレジに4人ほど従業員が入っていてせっせとバーコードを読み取り、金額を打ち出していた。国枝マミはスーパーのレジ打ちを学生のうちにしていたと言っていたがその頃ニライは何のアルバイトをしていたかもううまく思い出せなかった。いちばん端のレジの列がなかなか動いていない。みるとさっきの小銭をぶちまけた客がまだ居座っている。
 ガムを切らしていたと並びながら選ぼうかと考えてレジ前の棚を順々に見て行ったがどうしてか見当たらなかった。ニライが列を縫うように進むと並んでいた主婦が怪訝な目で彼を見た。代わりに蝋燭とチャッカマンと線香があって、ライターは持っているから蝋燭だけ買った。

 炎が揺れた、赤いしたのほうで、ロウが丸みを帯びて溶けている。
「どうして蝋燭なんか……」
 一通りの食事を終えて一本食卓に立った蝋燭を見た国枝マミはいう。アスパラガスのようだった。ニライはわざわざ居間の明かりも落とした。誕生にケーキでも出てくるんだねと冗談を呟いた。ニライにはそう聞こえず、な何かを断定しないと気が済まない彼女に少しうんざりした。強迫観念ような、何かを仕向けられている気がしてならなかった。早くこの女に顔を埋めて記号になりたくなった。
 机の上にぬうっと国枝マミの顔が浮かんだ。LEDとは比べ物にならない小さな明るさが彼女の内情を解き明かして晒しているように見えた。彼女は疲れているようだ。ニライは聞いてみた。
「寝れてる?」
「ううん、うん、いやそんなに」
「どっち」
「わかんない、寝ちゃう時は寝ちゃう、寝ちゃえない時は寝ちゃえない」
トートロジー?」
「いやなのよ、中途半端は」
 ニライは席に戻った。彼女と囲うように見つめる蝋燭が暗闇と明るさの同一平面状のグラフにおける中途半端なところにあるのではとニライは不安になった。彼女が掌でおぼろげな火をもみ消してしまうかもしれない。
 彼女がきいた。麦茶を啜ってから。
「ねえ、月の子知ってる?」
「え?」
 ニライは聞き返した。
「あ、今村夏子の?」
 彼はきいて、それは星の子だと頭の中で修正した。ニライと国枝が初めて入った町の小さな本屋に平積みされていた、当時彼女の最新作だった。ニライは本屋大賞にノミネートされるものは読まないと言ってそれに目をつめることはしなかった。もちろんまだ読んでいない。お次は映画化ときたらしい。冷蔵庫のお茶を注ぎながら 次の去来がおきた。
「あ、大江健三郎の?」
 ニライは本棚に急行した。ついだお茶は途中で飲み干して勘でどこかに置いた。蝋燭の光よりも記憶というか、本棚に対しての感覚を頼りに文庫本を取り出した。さらりとしたカバーに古本屋で買ったどこか砂っぽい、経年変化を待ち得た講談社文芸文庫の感触だとわかり蝋燭の明かりを当ててみると「月の男、ムーン・マン」だった。
「冷蔵庫、閉めてよ」
 国枝マミの顔が青白く映えた。冷蔵庫の中の白い蛍光灯だ。パ、タン、と閉じられた。
 路地裏に何かを落としてきた気がするように、不意に玄関を確認に行った。
「どうしたの」
 リビングから声がした。
「鍵閉めたかなって」
 ニライは答えた。
 えぇー大丈夫なの、と国枝マミがあきれ飛んでくる。しっかりしていないと気が済まないという国枝マミはニライを叱るだろう。ニライはチェーンまでしっかり閉じられているのを確認すると玄関の明かりを消そうとする国枝マミと廊下の端と端で目が合った。
「これ君の靴?」
「え、そうだけど」
 スニーカーだった。3本の白いラインが黒い合成繊維の側面に縦で走っていた。
「どうしたの」
 うーん、ニライはそう唸った。わからないんだ。
 ちょっと今日変よ、しっかりしてよね、落ち着きないよ、何かあったの。国枝マミを捲し立てながら席についた。蝋燭の火は消されていて蛍光灯の輪っかをした明かりがついていた。極端になっていた。

 エビを茹でたものをレタスでくるんでマヨネーズをつけて食べた。もやしを炒めようと考えていたけど一通りの味付けに関する実験は済んでいてあきてしまっている。皿洗いをしていると国枝マミがガムある? ときいてきた。あると答える。カウンターの端の方に吊るしたレジ袋にかけたままだ。いる? ときいてきた。ニライはいらないと答えた。この女とするとき、ガムの匂いがする。
 シャワーに交代で入ってテレビをつけたまま、一度して、あれこれ言い合わずにふたりで眠った。眠るときにミュートにした。国枝マミも記号だったし、ニライも彼女にとって端的な記号になった。時々何もしたくなくなって死にたくなるが、その真似事がこの記号と記号の交わるときに単純な享楽として迫る。ふたりでそのキワに近づけるのがニライは好きだった。彼女は求められることに歓びを覚えているという意味のことを何度も言っている。ニライはその言葉を信じているが時々それが欺瞞に満ちたものなんじゃないかと疑っている時がある。 
結局はお互い寂しいだけなのだ。
 フランス人はきっと済んだ後にあれこれ言い合うのだろうか。ゴダールの「恋人のいる時間」で不倫相手と議論する場面があるが、そもそも国枝との関係においてそれは「恋人のいる時間」ではない。

 金山プリンスホテルからイウラを連れ出すとすぐにタバコが吸いたいと喚くから元来たややこしい交叉点を渡り、交番横の喫煙所に向かった。ブラジルコーヒーで吸えばいいと言ったのに彼は何も言わずにまっすぐそこへ向かった。マルボロを二本続け様に彼は吸った。ニライは最近タバコをやめていたからしばらく煙を当ててくるイウラの風上に移り会話を試みた。前髪の間から見える細い目でニライを睨むイウラは、ときどき細い指先でかき上げて前髪をくしゃくしゃにする。彼の癖である。あの会合というよりかはディスコのパーティーで唯一髪を固めたり染めたりと遊んでいたなかったのは、そもそも毛がもう残っていないヤムオ(彼には眉毛もない)と、生まれてこの方地元の床屋一筋のニライと、イウラだけだった。イウラは地下鉄構内にあるような床屋の千円カットを散髪でして、その帰り道に自前のハサミで路駐している誰のものと知らない車のサイドミラーを頼りにアレンジを加えるのだという。

 昔付き合っていて危うく妊娠させかけたという美容専門学校の女から選別の品にもらったのがそのハサミだったという。本当かどうかわからないが、音楽の専門学校の女からギターを選別にもらって音楽を始めたというから、その女がいなければ彼は床屋か美容師になっていたかもしれない。
 ギターケースを預けているからと、交番にタバコを咥えたままイウラは取りに行ってしまった。すでに3本目だった。おとといの路上演奏で没収されたストリートミュージシャンがいるとヤムオのツイートを今朝みたが、もしかしてイウラだったのか。

 なかなか戻ってこないので交番の前に行くとギシギシに並べられたオフィスデスクの上に巡査と川の字になってマグロの解体ショーのモノマネをしているイウラが見えた。イウラに大きな包丁に見立てた小型画板を脇腹から腰へあてられている丸メガネの巡査と目があった。気まずくなって喫煙所に戻った。交番の隣のミスタードーナッツから4、5人中年女性が飛び出してきて大津通りの方へ全力疾走で駆け抜けていった。マネキンのフリをした赤い背広を着ているピエロが慎重な足取りをして進んでいるに突進して蹴散らしていった。駅の北口から止めどなく人間たちが出し入れされていた。

 

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 骨に絡みつくいくつもの繊維が記憶していた。何を? 言いようのない苦しみを。時間は関係ない。頭に残すものじゃない。全身が流動する体の外と接続し、関係しあい、跳ねれて繰り返し、記憶する。時間は関係ない。時間の矢は過去から未来へ進む、秩序から混沌cosmos to chaosへ。あるいは熱力学第二法則、時間、時間、時間……
 無数に広がり地を這う根よ、骨に絡みつく繊維よ、一切を暴力で引き裂いてやる、熱力学第二法則

 彼方へ、彼方へ……言葉の線よ、無数の筋よ、流動し、流れ、過ぎてゆく日々よ……mot


 ピンクフロイドの「夜明けの口笛吹き」はサイケデリックの隆盛していた時期にLSD漬けのシド・バレットがH簿すべての曲を書いた。このアルバムのレコーディングの最中、ビートルズが「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を隣のスタジオで制作していた。1967年のことである。
 

 もう書けまい、つながらない、筋たちよ、火は起こり、酸素を喰らい、燃える炎よ、お前はもうもどる道をしらない。物は朽ちて、時は過ぎ、現在は過去へ、炎は燃えて……
 薬物中毒からシド・バレットは翌年3月に脱退する。この年、ユーリィ・ガガーリンが墜落死して、マーティン・ルーサー・キングが暗殺され、五月革命があって、ロバート・ケネディが暗殺され、週刊少年ジャンプが創刊し、川端康成ノーベル文学賞受賞を受賞し、和田アキ子がデヴューし、ゴルゴ13の連載が始まり、三億円事件が起きて、文化大革命が起きる。
書くことで蝕まれる過去たちよ、無造作に、つながりなく、漂え、苦痛はもういらない、あるのは、ただの実感でしかない。
 この七年後、ピンクフロイドはスタジオアルバム9枚目、「炎~あなたがここにいてほしい Wish You Were Here」を発表する。シド・バレットの抜けた後のバンドは70年代に入り、「原子心母」「おせっかい」そして「狂気」といったアルバムで成功をおさめていた。環境の変化から難航した末に発表された「炎~あなたがここにいてほしい Wish You Were Here」のレコーディングに、脱退したシド・バレットが現われたという逸話がある。デヴュー当時、アイドル扱いされていたシドだったが、面影はなく、太り禿げ上がった中年の男だった。メンバーの誰しもがかつての仲間だったとは気づかないほどだった。
 いわゆるコンピネーションアルバムの体裁をした「炎」は1曲目と5曲目、つまり始まりと最後に「Shine On Crazy Diamond」という曲が全体をサンドイッチする構成になっている。歌詞がシド・バレットの身に起きる困窮へ指摘と解釈する意見もある。


Come on you raver, you seer of visions, come on you painter, you piper, you prisoner, and shine!


 もう書き写すことも残っていない、
  絶望も、希望もない、


 無秩序な断片たちが紡がれてはほつれ合う、
  厳格な筋道はない! 

   あるのはばらけた広がり、


Nobody knows where you are, how near or how far.


 根はもう持たない、
  あるのは散らばった、

   骨のまわりに広がる糸たちよ、

    はじまりからおわりへpoint α→point ω


Come on you boy child, you winner and loser,
come on you miner for truth and delusion,
and shine!


          燃えよ、骨の髄まで……
                   

                 (了)
 
pink floyd「Shine On Crazy Diamond」より引用)

シーソーのない公園 (短編24枚)

 ピクニックに行こう、と誰かが言った。

 誰が言ったかは古川にも江藤にも堀江にもわからなかった。覚えていなかった。下宿生活のかたわら、出どころがわからない資本がちょくちょく吹き出す堀江の部屋で持ち上がった話じゃなかったかと古川は記憶しているが確証はない。

 もしかして言い出しっぺは私だったかもしれないとの道中で彼女は繰り返し考えた。二人がけの座席を向かい合わせに、彼女の向かいに座る江藤と堀江もピクニックには乗り気ではないようにみえてくる。

 昼過ぎに堀江の部屋で目を覚ました古川はいそいそと、用意をしてよとふたりに言ってきかせた。堀江は覚えのない外出だった。江藤は何も言わずに古川の言いなりになった。

 沿線の各駅停車は、まるでじわじわと線路を蝕みながらすすむみみっちい芋虫みたいだった。それでも家々や田園や道路がずるずる動いていく。歩いていけばそれだけでピクニックなのにどうして電車に乗ってまでして遠くに行こうとしているのか堀江にはよくわからなかった。

 江藤がスマホをそうそうに出し始めた。

 堀江がため息をついた。

 江藤にはネット上に彼女がいる。彼女がいるということになっている。堀江は「概念としての」と江藤の彼女につけては何かと鼻につけて江藤をいじる。誰かに恋人ができれば江藤の話を引き合いにする。クラゲというハンドルネームの「概念としての」彼女は江藤に会ったことはない。TwitterのDMとLINEの無料通話越しにしかやりとりをしていない。VRか? ハイテクっ! と堀江は猿のように騒ぎたてた。古川はそれにネカマじゃない? と心配してしまった。若干堀江と同じものも含有していた。江藤にとってクラゲに性別は関係ないらしい。

 堀江が

「誰が言い出しっぺだっけ」

 ときいて、江藤が

「堀江じゃない?」

 とスマホから目を離さないで答えて、

「俺がいうと思うか?」

 と堀江はいい返した。

「ないね、たしかに」

「だろ」

 堀江はしらけた。

「え、じゃあやっぱわたし?」

 古川はいった。

「覚えてないや」

 江藤はこたえた。

 江藤は昨夜まともに会話が成立していなかった。堀江の家に集まってすぐ酒盛りが始まった。ゼミの愚痴を古川がしていると江藤がベロベロに酔い始めた。江藤は酒が弱かった。滅多に飲まなかった。それでいてクラゲとの通話を二人の前で始めた。堀江と古川は邪魔しないようにゲームを始めた。江藤を風呂場に閉じ込めた。江藤が便器と浴槽が一緒になった浴室でゲラゲラわらった。反響して余計大きく聞こえた。堀江は注意しにゲームを放り投げた。コントローラーがグラスを倒してかち割った。江藤が浴槽で吐いた。スマホは無事だった。古川がガラスを片付けていると堀江が浴室からもらいゲロをした。古川のシャツにまでぶちまけた。そのあとのことを誰も覚えていなかった。堀江は自分が吐いたことを覚えていなかった。江藤は古川が吐いたのは覚えていたが自分が吐いたのは覚えていなかった。古川は自分のシャツが台無しになったことは覚えていた。今日着ていたシャツは無断で堀江から借りたものだった。堀江は気付いていなかった。特に気にしてもいないらしかった。グラスを片付けたのは誰か、誰も覚えていない。

「あ、悪い、電話かけるつもりだ」

 三人が記憶を遡ろうとしている最中、江藤が席を立った。

「クラゲちゃん?」

 古川がきいたが江藤はもう列車のつなぎ目のドアを開けていた。揺れる足元で踏ん張りながら電話を受け始めている。古川もあきれた。

「あれじゃ怒られるわ」

「誰に」

「車掌さん?」

「あー、あれでセーフっておもってんやろ」

 よくやる人いるよねと堀江はいった。

「しょっちゅうじゃん電話」

「なに、妬いてるの」

「いやなんか気持ち悪いなって」

共依存でしょあんなん」

「お得意の恋愛哲学?」

「おまえそんなんじゃ彼氏作れねえな」

「いや、いらんし」

 堀江は拗ねてそっぽをむいた。窓際に座る彼の頬のそばから突き上がってきた雑木林が、野道が、ひらけた田園の光景が古川と向かい合う隣に貼られた大画面の窓を舞台に、下手から上手へ入退場をくりかえす。知らない街並みが続いて二人して見惚れていると、堀江が思い出したように、こっち、あの人住んでるほうか、と突然言い出した。

「阿久津先輩?」

「いや、バイト先の」

「あー、なるほどね」古川の頭にはぽわっとひとり女性が浮かんだ。「行ったことあんの?」

「ねえよ」

「ねえのかよ」

「旦那と鉢合わせたらどうする」

「そういうスリル味わうのかとおもった」

「ハイリスクな真似はしないんで」

「チキン」

「ヒヨッコがなにいってんの」

 堀江の女性関係は複雑だ。ハッカーの部屋みたいにタコ足配線の群れみたいだ。コードの海。接続しては切り離す。収拾の付かなくなって絡まったままほったらかしになっているものもある。継続的に作動するシステムのように、堀江は緩く浅く、踏み込まないように、あるいは人によって自分を使い分けて分散させている。

「タコ足チキン」

 と古川はいった。

「なにそれ、タコなの?チキンなの?」

「どっちも」

 線路が何本か分かれた駅で電車が停車した。

 後続の特急に追い越されるのを待ちながら、古川は昨日の授業から持ちっぱなしの大学ノートを取り出し、鶏にタコ足を生やしたものを描いて堀江に見せた。うわキモ。と短く返されたからじゃあ描いてよとペンとノートを堀江に突き出した。

 江藤は戻ってこない。

 堀江がキープしていた後輩がさ、あの女子大の、うちの大学の近所の、とつぶやきながら、劇画タッチの鶏が屠殺寸前に泣き寝入りする哀愁を漂わせる一枚を描いてくれた。筆圧が強くて次のページにもくっきりあとがついた。古川はインクがもったいないといった。  

 堀江は無視をした。

「にこしただった」

 と堀江はつぶやきの続きをした。

「にこした?」

「ニ、歳、年、下」

「あー」

「酒買わされた」

「酒?その子って」

「未、成、年」

「え、歳は」

「妹と一緒」

「それって酒買わされてんのあんた」

「いや、レジだけ。お金は向こう持ち」

「ふうん。酒欲しいために利用されてるんだ、ださ」

「そうなの?」

「都合の良い先輩じゃん」

 江藤が車掌に注意されてホームに降りて電話を続けた。未成年飲酒の片棒を担がれた堀江をなだめるほど古川は人がよくはない。

「お礼もらった?」

「お礼?うーん」

「何、もらってないの?」

「お礼、なのかな」

 堀江は肩掛けのベージュの鞄から眼鏡ケースくらいの箱を取り出した。古川の鞄の中ですでにへこんだ常備のコアラのマーチとちがって、原型をとどめているその頑丈な箱は百貨店の地下に売ってそうな贈り物じみていて、リボンが上に下に右に左に十字に巻かれている。堀江はまだ開けていないらしい。

「なにそれ、お菓子?」古川がきくと、わかんないとこたえた。あけてないの? あけてない。あけなよ。なんで。いやあけるもんでしょ。あけちゃうの。あけるでしょ。ここで?古川はため息をした。江藤がホームのベンチでうずくまるように座り、両手で右耳に当てたスマホを掴んで耳をすましている。ときどき風邪でかき消されそうなくらいの小さな声でささやいている。ここからではなにをいっているのかはわからない。口が微かに動いているだけだ。特急はいっこうに横切らない。

「あいつ、なんかやったんかな、キスとか」

 堀江は箱で江頭を指した。

「前と変わってないから、まだなんもしてないんじゃない?」

「やったらわかりやすい反応するか」

「教えを破った熱心な宗教家みたいに」

 古川の祖母はよくわからない宗教法人に片足を突っ込んでいた。よくわからない、宇宙とかおおきな途方もない話を小さい頃古川にときどき祖母は話して聞かせた。古川の母は自分の母のその話を嫌っていた。祖母ともう会わなくなった。ぼくは大変なことをしてしまった‼ あぁー! って、言いそうじゃん、古川はいった。祖母の家を訪ねた知らない若い男が祖母の前で突然そう叫んだのを思い出した。夏休みのことだった。あれから年上の男が古川はよくわからなくて、何か怖かった。

「エミは彼氏つくらんの」

 堀江に古川はきいた。

「製造元による」

「なんだそれ」

 古川にはこれっぽいのそういう話はない。別になくていい。あったらいいなこんな彼氏なんてものもない。彼氏がね、彼氏がね、と自慢してくる阿久津先輩が一時期毎晩ノロケ話をしてきたことがあって、それで嫌になったけど、もっとなにか、根源的なところで興味を無くしている。江藤はともかく、ねじ曲がった堀江がときどき色目を向けてくるのを古川は良くは思わなかった。かわすことのスキルを身につけるのにちょうど良いと今になって思うが、正直面倒だった。堀江から学んだスルースキルのおかげで前の前の居酒屋のアルバイト先で、ヤリチンの非正規社員の毒牙をかわすこともできた。両肩に乗ってきたあの掌が、毒を毒で制したこの友人と似たものだと気づかせてきて古川には後味が悪かった。

「製造元、どこがいいの」

 堀江がくいさがってきた。

「ナイショ」

「教えろよ〜」

 ナイショも何も、何もねえよ。古川は言わなかった。堀江がすり寄ろうとしたところで特急がドンっとビックリさせる音を出して駆け抜けていった。轟音の前に通過を知らせるアナウンスがあっただろうが古川は嫌な感じで聞き逃していた。向かいに座るぬいぐるみを着た男性器は獲物を見定めることで頭がいっぱいだっただろう、と古川は睨んだ。こいつの非常食かもしれない、なんてバカなことも考えた。ほんとうにそうだったら、と考えるというよりかはむしろそうとしか考えられなかった、古川はムカついた。

 特急がかき消した静寂が戻ってきた。江藤も戻ってくるかなとホームに目を向けたところで、電車が発車した。

 あーあ、とふたりしていいながらホームに残されてしまったことに気づかない江藤が見切れるまで見ていた。

 江藤は気付いていなかった。降りるつもりの次のターミナル駅で落ち合うことにした。連絡をすると江藤は次に来る急行に乗ってきて、今度はふたりがおいてかれた。車内でふたりはだんまりだった。なんだか損した気分、と江藤と落ち合って古川はこぼした。

 

 駅のロータリーを囲う店は軒並みシャッターを閉じていて、コンビニだけが角にポツンと残っていた。缶チューハイやらお菓子やら、公園に着いてから食べるものを三人は買った。ロータリの右角から交差点を斜向かいに渡ると河川敷に続く土手のゆるやかな坂道があって、そっちへ三人は歩いた。モンシロチョウが道を横切って生えて間もない草木をかいくぐっていく。

 江藤はショートケーキを買った。慎重にコンビニのレジ袋の底の方を掌にのせて運んでいた。堀江はみっともないとわらった。そういう堀江はウィスキーのポケットボトルを昼間から買って胸ポケットに入れては出して飲んで、その都度むせていた。そっちの方がずっとダサい、古川はそう馬鹿にした。

 河川敷を見下ろしながら土手を歩いていると冬の枯れ草がのこる原っぱからあたらしい雑草がちらほら少しずつ顔を出していた。野良猫の頭がちらちらみえた。

 堀江がまだ女の話を、ウィスキーボトルをくわえながら始めた。

「向こう岸のさ、団地、みえるでしょ」

「酒、我慢できないの?着いてからにしなよ」

 古川はいった。堀江は構わずまたぐいっとボトルを傾けた、

「んだよ、古川も買ったんだろ飲めばいいじゃん」

「あんたみたいになるのはヤダね」

「江藤、おいえとぉ、あの団地のよ、どこかの、何階に、あんひとすんでっか」

 江藤は堀江から半歩下がった。依然としてショートケーキの入った袋が、彼の空に広げた両掌の上に載っていた。

「なに、ストーカーしてんの」

「ひとぎき、わるいぞ。一緒にすんな」

「どういう意味だ。僕がストーカーだっていうのか?」

「じゃなきゃなんでてめえと同類にされるんだ」

「お前と一緒にしないでくれ」

「そっちこそ! そっちこそしてんじゃねえのかよ」

「はいはい、悪酔はやめな」

 

 土手の切れ目から県道が交差していて、斜向かいの角を奥に行けば目当ての丘がある公園に辿り着く。江藤も堀江も古川も、一言もしゃべらなくなってしまった。四時も過ぎてとっくに着いていたころだろう。明るい芝生にビニールシートを敷いて春の昼間を浴びながらのんびりしようとしていたのに、堀江が気持ち悪くなったと駅のそばまで水を買いに行ってしまって、戻ってくるあいだ、古川と江藤は河川敷の猫と戯れながらあたりさわりのない話をした。

「クラゲさんと会ったことあるんだっけ」

「ないよ」

「どんな人なの?」

「たぶん、さみしがりや」

「たぶんってなに」

「絶対にわかったつもりでいるわけじゃないんだ」

「どういうこと」

「だって、全部わかるとはおもえないじゃん」

「会ったことないもんね」

「急に連絡来なくなることだってありえるし」

「そんなことあったの」

「いまのところ」

「わかることはあるの」

「なにが」

「向こうが楽しんでるなあとか」

「それはわかりやすい人だよ」

「どういうふうに」

「壊れたみたいに笑うの」

「演技かもよ」

「うーん、どっちでもいいかな」

 江藤はクラゲのことを何も知らない。きっと知ろうとしていない。ネカマかもしれない。概念として成立してるだけで何もないかもしれない。システムとか、なんか、機械が自動で返してくれてるだけかもしれない。ネクラ大学生の感情を弄んでる暇人かもしれない。どんな表情をしているか、どんな姿勢で彼と言葉を交わしているのか、わからない。江藤には関係ない。言葉と声だけで形成されたネット上のつながりの恋人。

「会いたいって思わない?」

 体操座りで膝の下にいる猫を少し開いた膝の間から覗き込んで古川はきいた。

「うーん、思うこともある」

「へえ、意外」

「どこが」

「思うんだって」

「いや、まあ堀江と違ってぼくはがっつかないけどさ」

「童貞って言われるよ」

「童貞だよ」

「やーい童貞」

「ガキかよ」江藤は照れたような、乾いたむかつき方をしていた。嫌悪ではなく反応に困っているんだと古川にはわかった。ほんとうはわかりっこないけど。なんで恥ずかしがるのかわかんない。

「スーパー童貞!」古川はきゃっきゃと笑って枯れ草を蹴散らした。猫が逃げ出した。江藤は古川に処女かきくことなんてしない。堀江なら容赦なくきいてくるだろう。江藤の抱きかかえていた小さな黒猫は頭を低くしてそれを見ていた。やけに人懐っこい猫たちだと古川は思った。動物に好かれるタチではない彼女でさえ、一、二匹またそばへ寄ってくる。

「会いに行かないの」

「うーん」江藤が空を見上げた。空がひとつひとつ江藤を見下していた。「めんどくさい」

 えー、と古川は口をあんぐりした。猫が飛び込んできて噴き出した。草の粉を口に含んでしまった。

「だってさ、終わっちゃうじゃんか」

 空がひとつひとつ雲でちぎれていた。

 

 堀江が公園に着いてからビニールシートなんて持ってきていないといいだした。準備してっていったじゃんかと古川はキレた。おまけに芝生はハゲ散らかされていて砂地が剥き出していた。

 砂地にしゃがみ込むなり、古川は潰れたコアラのマーチをあけた。筒型の箱をふたりにつき出すと枯れ草を引っこ抜いていた堀江が、手洗ったんかよ、と文句を言う。猫触ってたろ、さっき。江藤にコアラのマーチを任せて水飲み場の蛇口をひねりに行ったがびくともしなかった。上から見ればコの字に並んだ遊具の配置を経由して反対側の入り口側にある、電話ボックスみたいに細長いトイレに交代で入った。遊具は錆びついたり黄色のテープが巻かれたりしてきた。ブランコの鎖が柱の方へ括られていて乗れなかった。すべり台は台が上がるまでの梯子の段がぐるぐるに紐が巻かれていて足をおけず、てっぺんもでたらめに使用禁止のテープが貼られていた。砂場の囲いも崩されていたり青色の硬いビニールシートが被せられていた。何もされていないのは江藤がもたれている鉄棒だけだ。江藤はケーキを食べていた。

 風が冷たくなってきた。

 堀江が出てくるのを待たずに戻って、チューハイをカパっとあけた。泡がどろどろと吹き出した。歩き回ったせいだろう。手が濡れてひと口ふた口あおるのを堀江がトイレから顔を出して見ていて、そのまま彼に渡してまた古川はトイレに手を洗いに戻った。

「飲んでいい?」

 堀江は聞いてるそばから口に寄せていた。

「だめ!」ぴしゃりと古川は答えた。

 堀江は苦笑してこっそりそのまま少しだけ飲んでしまった。彼のシャツを古川がきているのにまだ気づかない。

「昔付き合ってた子でさ、してはくれないんだけど、間接キスは許してくれた子がいてさ」

「ねえ、堀江、デリカシーないの?」

「え?」

「なんでそういうこと平気で話せるの?」

「別にいいでしょ、そんなドロドロした話じゃないし」

「いや、そういう問題じゃない」

「やだった?」

「友達の昔の女の子の話って、正直どうでもいいかな」

「ふうん」

「てか返してよチューハイ」

 堀江にからかわれている、古川は取り返したチューハイの残りを、缶に口をつけずに一気に飲み干した。すこし口を外して喉を滑った。そのまま缶を握りつぶした。こわいこわいと堀江はブランコの方へ逃げていった。江藤はまだクラゲとレス合戦を繰り広げているらしく、さっき一悶着した堀江を見向きもしない。コアラのマーチを左手に、スマホを右手にずっと鉄棒にもたれている。

 夕日がゴワッとさっきより曇り空にのびてきて、堀江がきたねえのそれをみて、くしゃみをした。あんたのほうがよっぽどきたないというと古川はぽかぽかしてきた。度数3%のチューハイで頭がガンガンしてきた。

「そういえばこの公園シーソーねえな」

 堀江がカニ歩きをしながらそう言うから古川はよくわからず噴きだした。

 

 土手道を歩くと街灯がポツリポツリつき始めた。半分くらい歩くとまた暗くなり、川の対岸の、車通りの多い県道沿いに橙色の街灯が等間隔に並び始めて、それが川の水面に反射してゆらめいていた。

 堀江はあの未成年飲酒の片棒を担がせてきた後輩の話題をポツリポツリはじめた。

古川は酔いを風でさますのが心地よくてききながした。堀江が無関心に対して文句は言ってこない。

 江藤はさっさと一番前を黙って進む。堀江がなんでそんなに急ぐのかをきくと、充電がきれたという。土手道に街灯はほとんどなく、対岸のわずかな灯りを頼りに歩いているようなものだった。

 帰りの電車に乗ろうと駅に着くと沿線の乗り換えだらけの大きな駅で人身事故があったとかで遅延が起きていた。本数も減っているらしい。

「勝手に死ぬなよ」

 と堀江はいった。

「自殺とは限らないでしょ」

 と江藤はいった。

 もう七時を回っていた。帰宅ラッシュの最中にあったらしくてもう一、二時間はこの状況らしい。夕飯食べていくことになり、駅近にはコンビニしかないからすこし外れたところまで行くことにした。

「ラーメン屋あるみたい」

 また先頭を歩いている江藤が言った。

 駅のロータリーとは反対側に住宅地に埋もれる雑居ビルの一階に「萬味亭」という赤い縁取りのされた店名が目に入った。二階の住居の、真っ赤なカーテンが外れかけた部屋の窓から目の細いパーマをくしゃくしゃにした豊満な女が古川を睨んできた。食べないで早く帰りたくなった。

 中華料理屋らしいが、蕎麦やうどんもありそうな黒い青色の暖簾が垂れていてどこか看板の赤と似合わない。内装も特に赤く染めたわけでもなく、けれど年月の蓄積に満ちていた。床が盛り上がったりすこし斜めっていて、テーブル席が並べれるだけ並んでいたからすでにいる二組の客の背もたれにかっつけたりしながら店内の奥に通された。椅子と机はみんな違うもので、三人の使う机だけ丸机だった。囲うように座ると堀江の背もたれが常連客のつかっている机にときどき当たった。狭い店だから仕方ないと堀江が呟くと常連が彼を睨んだ。古川はそれを見ていた。常連の中年と目があった。楊枝を口に差し入れていた。さっきの上の階の女と同じような細い目をしていた。ラジオが流れていた。テレビも流れていた。テレビは野球のナイターの実況中継だった。ラジオでは歌謡曲が流れていた。テレビからの音はしなかった。けれど歌い終えるたびに聞こえるような拍手がした。堀江は水の音だといった。江藤は歌謡曲からだろといった。上の階の足音が定期的に聞こえた。

 お冷といっしょにきたメニューを三人で覗き込むように見た。文字がひっくり返ってしまっている堀江は目玉の上下を変えるからちょっと待ってと目を擦った。脳みそラーメンというよくわからないラーメンが真ん中に書かれていた。写真は一つもない。

「堀江、これたのんでみてよ」

 古川はいった。

「なんでだよ、おまえ頼めよ」

「本物の脳みそで味作ってるかもしんないよ」と江藤はいった。

 カウンター越しの厨房にいる店員の婆さんに三人は目を向けた。野球中継に釘付けで口を開けたままグラスを拭いている。

「なわけあるかよ」

 堀江はいった。

「ためしてみてよ、チキン」

 古川はいった。

 注文をすると厨房の見えないところからにょっとコックのおじいさんが現れて、それにばあさんが「脳みそいっちょ!」と声かけするから堀江はお冷を噴いた。

 ごく普通の味噌ラーメンが堀江の分で届いた。江藤は塩ラーメンにネギ多めというメニューにないトッピングの注文までした。ネギは炙られていて香ばしい匂いをムワッと漂わせてきた。

「なんでエミはチャーハン?」

「いいでしょ別に」

「おこちゃまなんか?」

「あのね、中華屋さんの炒飯は美味しいんだよ、どっかのバカと違って」

 堀江は自炊と称してよくふたりに炒飯を振る舞うがベトベトで油濃かった。

「わるかったなあ」脳みそラーメンを堀江は一口啜った。スープも飲んだ。辛い辛いと喚き出してお冷を飲み干した。「炒飯くれよ」

「やだよ、遠藤からネギもらいん」

「いや、ネギも辛いだろ」

「このネギ辛くないよ」江藤は答えた。

 カウンターの向こうで婆さんがネギ追加! といきなり叫んだ。にゅうっとまたじいさんがあらわれて天井からネギを取り出して物凄い速さで切り刻んで中華鍋に転がした。その中華鍋ごと婆さんがこちら持ってきて堀江の頼んだ脳みそラーメンにドボドボそそいできた。「このネギ辛くないよ、体いいにいいよ、食べてってね、辛くないから」と片言で婆さんは言ってカウンターに戻っていった。グラスをまた拭き始めた。

 

 特急列車が止まらないらしいから、だらだらホームの乾いたベンチで並んで座って普通列車が来るのを待った。静かさをかき消したくなって古川はふたりの男友達に、あたりさわりのない、くだらない、つまらない話をした。世紀末の話だとか、陰謀論だとか、おばあちゃんに昔きかされた宇宙の話だとか、江藤のすきな声優の黒い噂だとか、堀江が大学ではなんて言われてるのかとか、近所の床屋に行ったらマスターの趣味で手製の箸をもらったとか、昔すきだった子がもう子供がいるとか……――

 各駅停車に座れて江藤は、いまさらゲップをした。堀江が食べきれなかった脳みそラーメンの残りも食べたからだ。やだあきたないと古川がわらうと堀江もつられたようにゲップの真似事をしたが、りきんでかわりに屁がでた。

「なんでいつもこうなの」

 ふざけた堀江は古川にくしゃくしゃに笑ってみせた。

「運命を呪うんだな」

「そんな運命たちきったる」古川は笑いながら答えた。

 江藤がそれから寝てしまい、降りる駅でも起きなくて三人揃って乗り換えをし損ねた。

                (了)

 

*本作は織田作之助青春賞おっとこちた小説です。2次おちでした。あちゃぱー(おぺんぺん大学運営主)

さあかす(167枚)

 

  •  アンケート

 あ、浮きだしてしまった、と木村蛙(きむらがえる)は云った。

 ずいぶんと、人の云うがままになるのはやめていたから、浮きだしてしまった。木村蛙はうなった。事実、あの夏から彼はぼくのようないわゆる一般人の歩く高さを歩けない。

 ときどき、彼の足がぼくの肩をこづく。ブック・オフの袋がざわざわ耳元でうるさい。木村蛙はその都度彼の足元の誰それに謝るが、もどの位置が上からだからどうしても反感をかいがちだ。いたたまれない気持ちにさせられる伏木(ふしぎ)ナオはいつも喉がカラカラで、腕に何本もミネラルウォーターを差し込んでいる。知らないほうがしあわせだった雨も、少しだけつよい肌を撃つ雨も、そろそろヤバ豚? と口を揃えたげな梅雨空がもくもく西から木村蛙のうーんと先まで囲んでしまうと、べったり街が潤う。

 木村蛙は、ぼくや伏木ナオのために直径4メートルくらいの蝙蝠傘を広げてくれる。とたんに大木に群がる蝉たちのさわがしさで、烏賊臭い中学生の一群が雨宿りに集ってきて、むせかえって、伏木ナオはぼくも巻き添えにして中坊を蹴りとばした

 ―打ち上げ鼻血、右から出るか、左から出るか。

 伏木ナオはとなえた、彼女は見るからに女の子なんだろうけど、ぼくには男になりたぁーい、女捨てたいとポカポカ殴ってくる。生物学上定義なら女性と結論が見出せるし、できる根拠を並べればキリがないんだけど、彼女自身はそうはいかない。

 うんと自分がそうであるとする実感も実力も、定義もあれあれゆらゆら帝国だ、と伏木はうなる。彼女は周囲のそこらへんのn人の他人も思ってるだろう、と豪語する、

 ―んなばかな。

 ―知らんけど。

 ―知らんがな。

 ―ぷいぷい。

 ―覗きこめんわ。

 その気になれば、ぼくは彼女のために街頭アンケートを取ることだってできる。伏木ナオの学生証のコピーをこっそり手に入れて、出会う人出会う人に「この子、おんなのこでしょうか、おとこのこでしょうか、あなたにはどちらにみえますか」と尋ねてみる。相手の顎の下に掌を皿にして尋ねると、仕事帰りのサラリーマンは快く受けてくれるから、爆笑しながらサクサクデータが集められた。

 

アンケート結果(100人調べ)

  • おんなのこに見える 56人
  • おとこのこに見える 10人
  • おとこのむすめに見える 2人
  • 写真に見える 1人
  • ぼくの娘に見える 1人 (回答者:伏木ケンジさん(49))
  • 無回答 10人

 

  •  金の卵

 これはどういうことだ、結果である。伏木ナオは他人の目に対してどういう反応をみせるのだろうか。どういう態度をとるのだろうか。笑うときはガハガハしないとか、化粧を上手く乗せるために保湿とか、諸々のケアをつねにおこたらないとか、香水を使うとか、荒らしい言葉はひかえるとか、さもウブであるように振る舞うだとか、ユーズーが効きやすい子になるとか、……するのだろうか?

「やーね、ざけんなし」木村蛙は、げふんとわらった。ぼくのアンケート結果をビリビリに破いて彼はこういった。まだ三人で飲み明かす納戸の酒盛りの季節だった。

「ねーね、伏木。俺ってさ、おちんちとおたんたん、ついてたんだよ」 

「ヴぇ、得したね」伏木ナオがすこしふかしていった。なにをふかしたかぼくにはわからない。

「でもさ、おとうさん、おとうとからとったんか! いもうとからむしりとったんかってゆうてね、ぜんぶとっちゃった」

「あら、かなしい」

「だから俺、なーにもついてへん」

「かっけーよ」

「赤ちゃん、つくれへん」

「青ちゃんつくればいい」

「青ちゃんなに?」

「青ちゃんは青ちゃん、りきめばだせない?」

「そうかなぁ」

 木村蛙はりきんだ。せーの、うんしょー! うんしょー!

 うんしょー! うんしょー!  

 頭上から、何かが降ってきた。一歩あとずさりしたら、金太郎のコスプレをしていた木村蛙の足のつけ根から、「金の卵」がおりてきた。あたりだ、伏木ナオはモモイロの声をあげた。ぜってぇいまからイイコトが起こるって。

 

  •  カラオケ

 だからぼくは伏木ナオと木村蛙を記して、彼らを急がせるつもりもなく、繁華街の隅の個室のある集まりにぶち込んだ。ゴシック風の内外装をした、魔女の塔のいでたちをした五階建てのカラオケでフリー・タイムのレッツ・シンギング・ア・ソング。伏木ナオは「金の卵」を大事そうに抱えて、木村蛙にマイク・ゾーン・イナフを握らせた。びくんびくん、木村蛙は揺らすから彼のマイク・ゾーン・イナフは「やーい貧弱アーマー」とののしった。

 朝がくるまで歌った。きても、きてない振りをした。なんたってフリー・タイムだから。

 花火大会の良さがわからない

 高校二年の夏

 お前と白々しい朝

 しみったれたズボン裏

 気味が悪いんだ その前髪

 きみが悪いんだ その襟足

 低気圧低気圧 低気圧

 ぼくが悪いんだ

 わたしが悪いんだ

 ユーウツはだれも救ってくれやしない。レッツ・シェイプアップ・ファンク・ヘッド。よくわからないカタカナを並べればかっこいいとガキのころ思っていたけど、すっかりそれがぶり返したよ。ユニー・サイコー、木村蛙が裂ける溶ける歌声を鼻につける。ぼんぼん、ぼんぼん、ぼん。ドリンク・バーを注文してないのにサーバーの傍に積まれたグラスに炭酸を全種ぶち込み、茶色く濁らせた液物で木村蛙がむせて、マイクをしゃぶりながらシャウトする。音が割れる。炭酸のスコール。 

 頭上をかすめる木村蛙なんて誰も気づけなかった。伏木ナオは、伏木ナオだけが気づけた。

 きっといまなら誰だって気づく、嵐を呼び、ペンドラムを天井に奏でて、マイク・ゾーン・イナフで「夜霧よ今夜も有難う」なんて歌えばどこかのスクランブル交差点の誰それの目玉を盗みつくすことだってできる。そうすればだれとも目を合わせなかったクラスの陰気くさいあの子だって一目ぼれさ!

 それでも木村蛙は歌う。なんだって歌う。ロックを歌う。メタルを歌う。パンクを歌う。ヴィジュアル系を歌う。演歌を歌う。アニソンを歌う。オペラを歌う。オリジナル・サウンドトラックを歌う。聖書を歌う。谷川俊太郎を歌う。吉増剛造を歌う。Aikoを歌う。主婦を歌う。人妻を歌う。女子高生を歌う。線路を歌う。女子大生を歌う。性の奔放を歌う。悲しみを歌う。存在を歌う。欲望を歌う。「アンチ・オイディプス」を歌う。パノプティコン構造を歌う。訂正がされない「言葉と物」を歌う。ポストポストモダンを歌う。大きな物語の崩壊を歌う。脆弱性を歌う。ルサンチマンを歌う。承認欲求を歌う。失われた20年を歌う。政治を歌う。虚栄を歌う。嘘を歌う。パースペクティブを歌う。やっぱり悲しみを歌う。理性で頭でっかちにひとりになった大学生を歌う。自嘲を笑う。乾いた笑いを歌う。構造を歌う。例外を歌う。喜びを歌う。歓びを歌う。悦びを歌う。祝祭を歌う。祭りの後を歌う。危機を歌う。平常心を歌う。馬鹿馬鹿しさを歌う。掃除機を歌う。 

 コーラの豪雨。

 木村蛙が平沢進「美術館であった人だろ」を歌い始めると下腹部が冷めてきて、じんわりトイレに駆け込むと中からカラオケの店員と見られるひそひそ声がしてきた。逆立ちして木村蛙は立便器に放尿を続けながら、背後の個室からする彼らの話になにもかもを澄ませた。話題はジブリ作品に関することであることがすぐわかった。そして声色を変えているだけで一人の男が一人二役で話しているだけで、女の荒息が所々混じっているだけだった。

「やっぱひゃやおのケっ作はなうーしかだよ」「せやな」とようやく着地したとき、思わず感極まって木村蛙は拍手を送りたくはなったが、地面に掌をついたままなので足の裏を合わせてパンパン鳴らしたすると負けじと腰骨が砕けんばかりの肉体と肉体のこすれる音が轟いてきた。ぱんぱん、パンパン。ぱんぱん。ぱん、パン……にょろ。せっかくセンチなジブリスタに出会えたトイレットペーパーをむしって個室を食い破り、握手を願いたかったが、相手が「ご不浄」のまっつぁい中うひょ~であれば、糞を拭いた手の可能性がある。

 トイレから戻ると伏木が「ねえ、カシュ―」となにやら貸していたものを返せよと言わんばかりの剣幕で貫いてきた。

 

  • 歌集

 「ねぇ、木村」「なんだい」「歌集ある?」「カシュ―?」「そう、歌集」「カシューナッツの?」「え、ナッツの歌集あるの?」「え?」「どんなん」「え、どんなんて」「どんな歌集?」「いや、ナッツやん」「何にはいってる?」「なにって、パンとか? クッキー?」「クッキー? そんな雑誌あんの?」「ザッシ? いやナッツ」「んーじゃ、著者は」「チョーサー?」そう、ぼぼぼ。「チョーサー?」「しょうゆ?」「いやパン」「パンタグリュエル?」お? ぶりぶり。「それはラブレーよ」「うーん」「ベルト・エーコ薔薇の名前。ヌメロ・ゼロ。「そうだよ私はいい子」「そういう俺はカエルの子」「帰る子」「帰るの?」「んーん」「帰る子はおたまじゃくし」「おたまじゃくしが放たれるぺてんしの音がします」「はぁ~」

 

 なんなら歌集つくろっか、ってなって、なったけど、木村蛙は口から吐き出したポラロイド・カメラでうんとうんと繰り返しカラオケの歌詞表示画面を撮っている。

「なにしてんの」

「これね、写真、部屋に貼るの」

 ポラロイド・カメラの吐き出した正方形の写真を机の上に並べていく。順番はトランプみたいにシャッフルしてしまったのでめちゃくちゃだ。

「貼るとこ、あるの」

「あ、ないね」

「なんで」

「壁、ない」

「ないね」

 木村蛙はおそらく世界初、壁抜きの部屋に住んでいる。壁抜けではなく、壁抜きなのである。柱さえ、ないのだ。四畳半一間の頭上三メートル上に屋根になる者、持ち上げる人見知りの天井があるだけだ。

「どこに貼るの」

「不可視の壁に」

「本にしようよ」

「本? なんで」

「歌集にするの」

 ―撮りためた女の写しきりきざむ別れをとらぬはや九年

 こんなかんじだろうか、一首つくってもってきた木村蛙はブックオフでまとめ買いした時の長いレシートの裏紙の赤の油性ペンで書いたものを伏木ナオにみせた。つるつるして、「BOOK OFF BOOK OFF BOOK OFF」とメンヘラの日記帳のよくわからない文面のそれ、羅列のそれに書き殴るその一首を伏木ナオは大事そうに受けっとって、こう返歌した。

 ―あぼりじに返報たより書きつけば弁も事なき執行猶予 

「あぼりじに?」「うん」「誰それ」「わたしの友だち」「どんなやつ」「地底人だったかと交信できる」「ま?」「ま」「まじゃないよ、む」「む」「無」「ム!」「め」「も!」

 すると今度は木村蛙が長考して雷雨を呼びおこした。

 ―あほいじり金歯をむしり質屋入りへこみに浮かぶ豚肉のスジ

「金歯さすひと、ぶたにくたべるかな」「たべる時はたべるっしょ」「やっぱ牛肉じゃない?和牛」「え、でも字数オーバーする」「ぎう! とすればいいんじゃない?」「え、なにその閉店ガラガラのひとみたいな」「ちゃんと腰いれていうのよ、せーの、ぎう!」「ぎう!」「よし」「てかそうしていいの?」「いいんじゃない、知らんけど」

 伏木ナオの番だ。

 ―暮ごもり眠りにつけどふさぎこみ日のスジおもに顔へ差しこむ

「時間めちゃくちゃやん」「そう?」「だって暮れに日差しやろ」「いいんかい」「あれでしょ、夕暮れに目覚めたと思ったら朝でした! みたいに」「すっとぼけ~」

 

  •  生活について

 いまや夕暮れか、朝か知れない間に、いや、肌につく空気のしんみりとした心地がやっぱり明け方なのかななんて踏んで歩いてみるとむしろ夕方で、てんで当てにならない、木村蛙はうなだれて天井をみながらあおむけで伸びをしているから、伏木ナオは自分の懐にある「金の卵」にあんたはめざまし鳥、いや早起き鳥にでもなってくれよと言い聞かせる。いったい何が生まれてくるかわからないまま二日、三日、一週間、一月と流れていく。一向に孵らないからさては中身なしに思えてきて、生みの親にきくと「あんがいそうかもね~」なんて適当に返され、どこまで本気だったんだろう、どういうつもりで産んだの、と聞きたいけど、それは私だけの責任ではない気がする、そう伏木ナオはやめにする。どういう意味だと返すと、これは「ふたりの問題」というけど、どこの誰の話なんなのか、バディものの映画―何とかコップや、メン・イン・ブラック、元をたどればきっとホームズとワトソン―を列挙してみたけど、それは違うよ、と彼女はぼくに言い聞かせてくれる。これは「ぼくら二人」の話題だっていうから、阿吽の呼吸とか、そういわれているあれみたいな、部屋に一緒にいると、木村蛙がねよくわかったから、よくわかってるから

なんていうの。そういわれるときもちわるいの。

 「金の卵」あまだ産まれないのか。

 ひと月も働いていない日々がぼくに、伏木ナオに木村蛙に続くから、生活が、食いつなぎがきつくなってきた。木村蛙をひっぱりだしてハローワークに連れて行こうとするけどてんで嫌がって、仕方なく伏木ナオとぼくだけだけ日払いのイベント設営などのアルバイトを入れるようになった。三日連続で入って、なんだか木村蛙をどこに捨てようかな、なんて云いだす。

「勘弁してよナオちゃんたのむよこの通りだから」うずくまって喚く木村蛙が部屋のまんなかで鬱陶しい。だんご虫の歌をきかせると逆上してくるかな、なんて期待するけどやっぱりいじけ続けるばかりだから、万年床のうえで伏木ナオのいない昼間にひとり組体操をしている。

 つづいて十日連勤の日払いアルバイトをやりきると、伏木ナオは途端に時間の軋轢をまとめて喰らったみたいに三日三晩寝込んだ。時間の使い方に拒絶反応をおこして資本のいち要員になった100時間を取り戻そうと彼女のなかで暴れた。木村蛙が看病するかと思ったら彼が寝込み続けて熟成した伏木ナオの布団にねかせて冷水をくゆらせたタオルを小さな彼女の額にのせてくれただけだった。ずっと「失われた時を求めて」を読んでいる。カラオケ・オールにいった時の昼間に伏木ナオのために買った井上究一郎訳、つまりちくま文庫10冊揃。岩波文庫版がいいっていうけどまだそろってなかった。これで木村蛙の所持金は尽きた。木村蛙にはこの何冊もつづくひとまとまりの作品に蹴落とされていた。

 疲れがどっと溜まっていたものがどっと吹き出したらしかったけど結局10日寝込んでようやく調子を取り戻したけど病院にはいかなかった。

「ねぇ、いいかげん、ちょっとは働いてくんない?」

「何いってんの」は? ときょとんとする木村蛙が呑気でムカつく。伏木ナオは横になる木村蛙のわきを踏み続ける。―生活が当落する予感と友達になってるのを木村蛙は気づいていない。伏木ナオの働いていることも木村蛙は知らないし気づいていないから日払いの給料はほぼ木村蛙に流れていない。

「飯、あたんなくなるよ」

「それは困る」

「もう尽きかけるよ」

「困るな……」

「ね、何でもいいから、なんかはじめようよ」

「……たとえば」

「え、日払いとか、飲食とか」

「ヒバライ? インショク?」

「え、なに、いや?」

 ヤダね~と小学生みたいな反応に伏木ナオは木村蛙の耳をむしった。

 

 

 伏木ナオの具合が良くなってから、ふたりはハローワークに行った。乗り換えを一つして大学の傍の町のハローワークにした。スマホで仕事探しをしたがらない木村蛙のために定期券が切れているなか、片道でふたり分一〇〇〇円もとられて、帰りは歩きにしようなんて言い出す。伏木ナオが5時間かかるけど、とささやくとおとなしく座席のうえの荷物棚に木村蛙は引っ込んだ。見る見るうちにビルが増えてきて木村蛙は苦い汁を口に含んだ顔をした。

「ひぇ~都会」木村蛙は頭をずり落として上下さかさまのビル群を眺める。「あ、室外機」彼の見たそれはビルの側面から半身つきでたいくつもの室外機だ。伏木ナオはぎょっとした。室外機がどうしたんだ。室外機がかわいいといいだした。車内にまばらに座った誰もが半身のりだしてこちらを見てくる。おかしい? 吹き出した伏木ナオに木村蛙は不思議そうな目をする。そんなことないよ、と答えた。

 ハローワークには入口から人があふれだしていて、まだ開館していないかと思ったがそんなことはなくて、求職者たちの集まりがそこらじゅうで行われているようだった。はじめの方伏木ナオはその光景に、何やら生存競争のそれが始まっているかに思えてどこのグループに木村蛙を放り込もうかと品定めをしていたが、やがてそれがただの酒盛りだとか、競馬の話題であるとか、厭世家どもの議論の場であるとわかると息子を扱うように木村蛙を抱き寄せて館内へ入った。無職のカビと呼ばれている痩せ型の男が木村蛙にカップ酒を渡してきてこっち来いよと棒切れの腕でひっつかむのを伏木ナオは振り払って受付を目指した。汗や体臭を熟成させて膨らんだジャンパーを着る中年の髪と髭の長い中年のあつまりだとか、殺し屋のそれをした目つきの悪い大男だとか、その取り巻きか同じような表情をしようとして単にまぶしそうにしているにしか見えない小太りの背が低い二人の男だとか、待ちぼうけと称した怠惰を過ごす彼らは床に打ち付けられたカビを大声でぎゃらぎゃらわらった。お互い背をもたれて居眠りをする彼らを跨いでつきあたりの受付に辿りついた。手続きを済ませると彼らと同じ、玄関から続く待合室に居座ることになった。担当者と向かいう合うのに三日かかった。往復券を買わなくって良かった。

「木村カワタくん」「はい」「大学を卒業したのは三年前」「はい」「その間なにしてたの」「その」「うん」「あの」「いやべつに責めてるわけじゃないからね」「はい」「人それぞれだから」「はい」「で、なにしてたの」「その」「うん」「字書きを」「じ?」「こ……志してまして」「ジカキってなに」「字書きは字書きですよ」「はぁ」「はい」「まあいいや」「はい」「何か得意分野あるわけ」「はい?」「いやだから得意分野あるの」「……ええと」「うん」「そう、ですね……」「そのジカキに関わるの?」「ええ……まぁ」「ジカキゆうのに直結する仕事、探してるんだね」「ええ……まぁ、そうなります」「そかあ」「はい」「まあでもようわからんな、ジカキゆうのは」「と、いいますと」「ジぃゆうのをかいとるゆうんやろ」「ええ、まぁ。ネットの記事とかできたらしたいです」「ネットの生地? 編むん?」「まぁ編んでますね、ロラン・バルトも、いうてますし」「ロラン? え? なんて?」「ロラン・バルト」「だれだ」「え、」「まぁいいわ、生地の作成か」「はい」「技術職なるしなぁ」「ライターって技術職なんですか」「ライター? あ、まってそっちの記事?」「そっちです」「そっちか」「ネットの記事……できたらシナリオライターとか……」「全然違う気がするぞそれは」「そうなんですか」「だってそうでしょう、本当の事書いてる、嘘書いてるでちゃうやろに」「嘘なんですか」「嘘やろな」「物語は嘘なんですか」

 とりあえず、明日の昼までにライターの仕事かき集めていくからまた来なさいと帰された。

「どんなライターの仕事でもいいね」担当の中年男性はそう最後にきいてくれた。

「はぁ」木村蛙はすこし考え込んだ。

「いいよね」伏木ナオがこづいた。

「はぁ、はい」

「……ほじゃ、またきて」お次の方~とすぐに係の男が扉を開けて別の求職者が流れ込んでくるから、名残もなくさっさと追い出された。

 帰りの電車で木村蛙は眠れなかった。すっかり外は暗くて、伏木ナオも、隣に座っている女子高生もばあさんもチョコレート色の髪をした若い男も、みんな揃って頭をへし折るなりそばの人にもたれるなり眠っていた。木村だけが起きていた。

 翌朝、昨日の担当してくれた係のおじさんは見当たらず、はたりして迷ったが、受付の人に聞くと「伺っております、少々お待ちください」とまた半日くらいごった返しの待合室待たされて、三時になる頃にまた呼ばれて個室の中に案内された。廊下の窓枠からは夜空が見えた。

 

「木村かえるくん」「はい」「大学を卒業して三年」「はい」「何をしてたの」「えぇ」「履歴書見ればわかることなのよ」「あ」「どうなのかな」「はぁ」「アルバイトとかしてた?」「その」「うん」「音楽活動を……してました」

 あれ? そうだっけ、と伏木ナオはいいかけたけど黙っていた。なにか木村蛙にも向こうにも考えがあるのだろう。

「音楽……ねぇ、バンドとか?」「えぇ、そんなものです」「どの楽器、してたの」「その、タンバリンを」「タンバリン?」「えぇ……タンバリンです」「へぇ~……」「たたきながら、たまにコーラス歌ううんです。あと、シャウトできたんで、ボーカルの代わりにそのパートやってました」「シャウト?」「シャウトです、メタルとかである……」「いまできる?」「マイクありますか?」「いやぁないかなぁ……待合室のアナウンスくらいかな」「しましょうか」「いや、いいわ」「まぁもうどっちにしろできません」「はぁ」「のど、やっちゃいまして」「バンドはじゃあ……」「ええ、やめました、やめて半年になります」

 タンバリンとコーラス、シャウト担当ってどんなバンドなのよ、とこめかみを指先をあててる事務員の女の人が目を細めていると、木村蛙もなにやら妙な気がしたらしく、あの、昨日、他の担当の方に、ライターの仕事を紹介させて頂けるという話になっていたんですが……ときくと、魚のまん丸い目をして事務員の女の人が「ぁあっ、朝礼で連絡のあった人、あなたなのね、あらやだ書類これ違うじゃないの。ちょっと待っててください、ただいま確認してくるわ」そう取り乱してそそくさと席を外すから、二人はあれれっと首を傾げた。

「チョウレイって何だろう」木村蛙が天井に背中を貼りつけてそういった。

「全校集会みたいなもんでしょ」

「え、校長先生が全校生徒にさらされたの、俺」

「いや、ここ学校じゃないし」

「どゆこと」

ハローワークの事務員さんが仕事するのに連絡事項を共有しておかなくちゃならないでしょ、そうでもしないと仕事と上手くいかなくなっちゃうじゃんか」

「連絡事項……共有……でも結局されたたのにできてないじゃんか」

「それはまぁ、むこうのミスだよ」

「ぞんざいにされてない?」

「にんげんだから、むこうもミスしたんだよ」

「でも俺は人間じゃないかもよ」

「そんなことはないよ」

「そうかな」

「そう!」

 

 三十分ばかりして先の人とは別の、中太りの眼鏡をかけた丸顔の事務員の女性が部屋にはいいてきて、「お待たせしてしまって申し訳ございません。昨日、こちらの瀬川が担当させていただいた木村カワタさまですね」と及び腰で対応してきた。中年担当者(男)瀬川がかき集めてきてくれた募集要項が以下のレジュメである。それぞれの詳細、営業所の所在、連絡先は次のページから続いていた。

 

現時点で募集されているライター業務

に関する要綱一覧

  • 中古車広告の作成アルバイト 

   ひと案件3000円から5000円 

  • 書店ポップ代筆アルバイト 給料案件出来合い次第
  • 字給10文字1円 文字起こし代行アルバイト
  • 夏の書き入れどき!読書感想文販売!

    給料:小学年むけ一部500円(出来合いによる)

       中学年むけ1部700~1000円(出来合いによる)

  • 反省文代筆 秘密厳守 スマホ持ち込みなど、高校生向け素材の作成.

       現役女子高生を交えた文章の模倣研修つき!

       給料は要相談

  • 非正式文書作成アルバイト ひと案件あたり5万円から。秘密結社や政府から流失、漏えいしたと思わせる架空の極秘文書の作成!情報社会を惑わすフェイクニュースの生みの親になろう!手当一切なし、詐欺罪に問われても本部は一切関与しない。
   

 

 

「結構、ライター業界もピンキリでありまして、容易に紹介できるのがこれくらいでして」

 眼鏡の事務員はそういった。

「これ全部ですか」伏木ナオはきいた。

「ええ、そうなります」申し訳なさそうに事務員は答えた。

「全部、いいですか」

「え、全部ですか」

「全部です」

「した二つはお勧めできませんが」

「たしかに」

「できるんすか」

「どうなの木村くん」と伏木ナオはきくけど、木村蛙はレジュメから目を離さない。

「できないことはないでしょうが……なんせご覧の通り、副業、というか学生の小遣い稼ぎのようなものですから」と係の人は案件を弁解する。

「どうなの木村くん」伏木ナオはすりよった。

 

  •  お仕事

 木村蛙は天井と床しかない家にパソコンおくと次に来た台風で水没してしまい、中古で買った旧式のパソコンはすぐだめになった。仕事しに伏木ナオの下宿先にやってきて文字起こしのバイトを日に5時間ほどして、書店から委託された本をネットなどで調べ、工作をしてみすぼらしい平たいPOPを量産して、夜はほとんど読書感想文のための本を読むのに費やした。はじめのうちに中古車広告仕事をクビになった。

 二週間経つともう機能不全が明らかなことになってくる。児童センターのアルバイトを始めた伏木ナオに文字起こしを木村蛙は頼むようになった。読書感想文の本が今読んでいるものが難しいらしく、この前の日曜に徹夜して仕上げた、フェルマーと龍だったという児童文学の感想文以降、納品ができていない。

 メルカリの「死霊の宇宙子」さんがクライアント先なのだがよく催促のメールが伏木のパソコンに迷惑メールの量で流れ込んでくる。たまに違法サイトへのリンクであったり、ダークウェブに眠っていたUMAの動画が添付されていたりして、徹夜の助けになった。

 木村蛙がPOPを職場の利用児童に依頼しようとして口論になった。

「自分がしている仕事でしょ? おかしくない?」

「協力を頼んでるんだよ文字起こしも手伝ってくれるじゃん」

「いやもうほぼ私が知ってるからねその仕事」

「なあ頼むよ」工作みたいなもんだからさ、木村蛙が土下座をするかと思ったが宙で頭を下げるだけだった。

「頼むのも何も楽しようとしてる魂胆まる見えだかんな」

「とんでもない」

「だいたい最近何読んでんの読書感想文なんだよ?」

 木村蛙の持っていた新書サイズの赤色がかったカバーを引き抜いてむしり取って表題を見た。

 

「意志と表象としての世界 1」

 

 いやこんなの小学生読まないでしょ、いい加減にしてよなに考えてんの。

「異彩を放つ子いるかもしれないじゃん」と木村蛙が言うから試しに伏木は机の原稿用紙を引き抜いて内容読んでみた。よくわかんないって書きまくって売れると思ってんのか。「死霊の宇宙子」さんに怒られるよ。

「だって難しいもん」ふてくされたわからない本に目を落とす。目を落としたってきっと彼にはムダだ。

「同じ小説でも視点を変えて書けばいいじゃん宇宙子さんも怒らんでしょう」

 工夫がないのだからと付け加えて隣の部屋の冷蔵庫から寒中チューハイを取り出した伏木はソファ兼ベッドになだれ込んだ。

「POPだって文字ばっかじゃないもっと見やすくしなよ」「あと文字起こし自分でやれよ」

 次の日から伏木ナオ宅に木村カエルが来なくなった。見上げる必要がなくなって、首が痛もなくなりすっかり寝心地も良くなって伏木はよく休めるようになった。パソコンは深層ウェブと今でもつながっていた。

 たとえば雨の降り続けた夜、メールに添付されていたリンク先から勝手に配信画面に移行した。メールの受信箱から既に深層ウェブの闇サイトのページに過ぎなかったのを夜明けに気づくことにはなるが、すぐに近所のというか街のはずれにある廃工場の一角、コンクリートで固め囲まれた資材置き場の隅、煙突に取り付けられたはしご、雑巾が使われたまま積み重なり、何層にも砂埃や地コケやカビを生やし戸の開かれたまま中身を晒す掃除道具入れ、歯車まみれの廃車よりも2、3倍は大きい静かに眠る機械、伏木にはよくわからない不気味なカットが30秒から1分ごとに切り替わってひたすらその光景が配信されていた。変化という変化はなく、動画を撮影されているに違いないのだが静止画を一定の間隔で切り替えているようにも見える。配信は30分ごとにコインを5枚だったか6枚集めないと延長できる自動的に画面が終了してしまう。残り30秒を切るたびに匿名のアカウントがコインを引き連れてくるから配信は延長されてしまう匿名のアカウントと言うのはアカウント名で、アイコンは初期設定の人型のシルエットのままだ。

 また何か動き出そうだった。近所の工場の一角だと勝手に伏木は勘付いていたが確証はあまりない。

 木村蛙の住む河川敷を下ると川を挟んで大小様々な工場や倉庫、港船の小屋が並んでいたが、ひときわ規模が大きく沈黙し続ける工場が湾に突出して埋立地の隅から中央にかけて横たわっていた。あの工場をちゃんと見たことがないのにこの枠で何度も映されている光景をそれに合わせるなんてなんだか短絡的だった。リトルグレイのインタビュー動画よりも夜の工場の中継のほうがずっと不気味に思えた。リトルグレイを俳優が演じていた。

 伏木はすっかり画面に釘付けだった。30秒から1分の間隔にあるひとつひとつの画面の情報を余すことなく受け取ろうとしている。今何か動いただろうか。

 だんだんと光景の変化を認識できるかできないのかと考えていくと「ピコーン」とメールの受信箱が震えて手にとると、というか開くと「死霊の宇宙子」からで、読書感想文の依頼に関してのお叱りの文面で、伏木もこれに返信する気にはなれない。

 廃工場の定点カメラの配信は72枠目らしく伏木が昼間に眠っていた間にもまだ映されてると思うと何をしたいのか全く分からなくなる。この3日後、「死霊の宇宙子」から外部委託を取りやめるとした連絡がきて、結果的にまた1つ仕事がなくなった。文字起こしとPOP。POPは結果的に希望者を募って伏木の職場を利用することになってしまったし、文字起こしはすっかり彼女はブラインドタッチを習得してしまった。

 

  •  意志と表象としての世界

 木村蛙は一向に戻ってこない。今頃まだ「意志と表象としての世界」で感想文を書こうと読んでいるのだろう。

 

  •   ピンクの家

 町のはずれから隣の港のあった町までふたつの川が沿って流れている。わずかな漁船らしき小さな船と運搬船が並ぶ。L字の湾から陸に上がると海と川を開け隔てる水門のような設備がそびえている。付近のビルからそれは3階建てに相当するもので鉄扉が青く塗られて、断頭台のように釣られている。

 さらに川を上るとふたつに分かれる。八木川と木野川だったかと伏木は記憶している。ちょうど木野川へはこのまま伏木の住む町へ捩れ、たまに曲がりながらつながっている。

 もう片方の八木川へは、港のある街から街へ横たわる丘のそばに並ぶ、駅地下の繁華街で通じている。八木川はその昔運河だった。人工の川だった。八木川を渡る、8つの橋の海から数えて4つ目ばかりの橋の裏に木村蛙の屋根と床しかない家、彼のすまいがあった。

 児童センターのアルバイトの帰り、久しく伏木はそちらの方まで降ってみた。木野川を下って合流地点を行くより、丘に沿う方が近かった。住宅街をのように進んだり、かと思えばたんぼ道を横目にパチンコ屋コンビニ看板がまばらにあるだけの県道を少し横切ったりすることもあった。丘が近づくと車の往来が激しくなる。丘が近いと歩いて帰る気が少し削がれる。丘に沿う繁華街は老舗の和菓子屋もあれば火車のスーパーに、某ドーナツ屋だってあった。伏木は駅の向かいのGENKEYで切らしていたトイレットペーパーと硬いビニールのケース付きのサンダルをひとつ買った。海から4つ目の橋は駅とGENKEYに挟まれたこの通りを丘の消えていく向きに合わせていくと見える。狭い運河で橋の下に居住できるほど余裕は無い。きっとすぐに見つかる。

 ピンクの外壁に見とれていたか、橋に割り込む通りを見逃した。ひとつ、いやふたつだろうか伏木ナオは川を沿うつもりで入り込んでしまった路地をまっすぐ進んだ。突き当たりの丁字路で川が見えるかと思えば、あったのは背の低いコンクリートの塀に囲まれた鉄パイプの詰まり煙突、大きなタービン、その寄せ集めだった。丁字路を右に折れて沿うべきか左に沿うべきか、工場のような敷地の果てがこの丁字路沿いに見当たらない。それぞれ工場とは反対側の、つまり伏木が戻るべき方向へ折れている。川はどこだろう。

 元の通りに出ようとしたけれど見とれていたピンクの外壁の家がわからない。この路地はそれほど長い距離はなかったはずである。2、3軒ほどだった筈だ。空き地はあったか。ミラーはあったか。すると戻る道沿いの廃屋の間からわずかにピンクの家が垣間見えた。どうやらどこかで隣の通りに入り込んだらしい。

 分岐点があったかどうか定かではないし、かといって道は直線ではないから、やはりどこかで脇に逸れたのだろう。最初の路地に入る前の通りに出てピンクの家まで戻ると、西洋風の玄関に木目組みのテラスがリビングの窓の前まで続いていて、開かれたパラソルの下に青白い服を着た白髪の長身のおばあさんが足を伸ばしてこちらをぎょっと見つめていた。手元には右目と右耳のない猫が静かに垂れていた。

 

  •  ☆

 しんぎゅらりてぃ☆さちこは町の丘をつたって並んでいる鉄塔のひとつ、てっぺんに食い下がって叫んでいる。そう木村は思えてならなかった。橋、川の真上、はるか上、はるか上ほどでは無いけど、ジャンプしてもとうてい届かない高さの電線が瞬いていて、ちょうどその前を見上げると青い空に楽譜が書けそうな気がしてくる。鳩か雀か鴉かが休みにとまりに来ている位置をノートの罫線に譜面代わりに書き込んだ。

 川辺の泥水土砂で、橋の下の天井と床しかない家はダメになってしまって、三日三晩、町をぐるぐる回って寝床の代わりを探していた。10回は職質され8回は跳躍と空中浮遊で巻いたけど、あとの2回は地下街や地下道で鉢合わせたときで、天井を歩いても仕方ないから外の方に結局にげた。身の上、他人の好奇の目なんて気にすることもなくなったけれど、渦巻きの飴を舐める子供にーあのじいさん悪もんなの? と手を繋いでる母親らしい女に聞いていたときはちょっと木村蛙は傷ついた。

 ―俺まだ20代なのに.。

 1回はパトカーに乗る寸前で浮きだして、信号機から廃ビルへ、廃ビルから室外機を蹴飛ばして立体駐車場の非常階段へと泳ぐように移った。

 あとの1回はそのまま地下街の警備事務室に連れてかれて、半地下の―奥の応接室と書かれた―実質、取調室の装いをした部屋に連れてかれ、身ぐるみ全部はがされた。

「職業は」

「ライターです」

「事務所とか入ってる?名刺は」

フリーランスなので事務所も名刺もないです」

「何かの雑誌に載ってる」

「えーまぁ」木村蛙の言う掲載されたと思っているのは中古車広告の冊子であろうが、とうの昔にクビになっている。

「えーどんなん?」

 喉が詰まって木村は、夏休みの少年たちの手のひらのに押し潰されようとしている蛙のようだった。

「もう出回っていないです」

「出回ってんもんなんなん?」

 警備の老人はさっきからメガネを片手にとっては両手で関節をつまんでかけなおすのを繰り返している。

「エロ雑誌とかじゃないですか」湯のみをつかんだまま若手がぼんやりと老警備員に言った。

「え?いまエロ雑誌ってないん?」

「コンビニで立ち退かれかけてますよ」

「まぁ俺の親ジィ、むかしようこおてぇ、おふくろに絞られて全部燃やされてとおったなあ」

 どうでもいいという目で若者の警備員は木村を見つめていた。

「まぁ今日はとりあえずこのまま帰すから名前と住所と連絡先、免許証でも保険証でもいいからちょっと出してもらえる?」

「持ってないです」

「え?」

「いや今日でしたねあぁはい」

「は?」

 何どういうこと老警備員が聞いてくる。重い声でこっちが口を動かせない。

「あのごめんなさい、そそう、そうそう、そそそのですですね、今今日も、も持ってないんですよ連絡先になるもの」

「はあ」浮浪者なんじゃないのと老警備員が若い警備員に聞いている。若い方は直ぐに人差し指を立ててシーっと威嚇した。

「ちょっと電話してもいいですか」

「なぜ」

「住所聞くんです、知り合いの子に」

「なぜ聞くんです」

「彼女なら知ってるんです」

「はあ」

 木村蛙はきっと取調室の向こうで屹立するロッカーに住むしんぎゅらりてぃ☆さちこが今にも壁を突き破って、熱線でも使ってこじあけてくるのを待ち望んでいた。

「あけてくれ」しんぎゅらりてぃ☆さちこはまだ木村蛙の中では存在しているが、他人からは存在しないように捉えられている。

「おい」はいすいませんとすぐに木村蛙が待ちわびていたのは怒号ではなく、泣くつもりなんてない。

 しんぎゅらりてぃ☆さちこ! の熱線がギラギラ背を、後頭部を焼いているので暑い。

「すいません」

「なんだ」

「あの後ろみてもいいですか」

「なんで」

「しし、ししんぎゅらりてぃ☆さちこがもうじききてる、かま、かもしれないんで」

「しんぎゅ?なに?なんだって?」

「しんぎゅらりてぃ☆さちこです」

「君お国はどこ」

「日本です」日本には日本、日本や日本「いやあの出身地。何県だ」

「島取県です」

「しまとり?あ、島じゃなくて鳥か?」

「いやあのすいません間違えました鶏鶏鶏鶏鶏鶏鶏鶏」

「もういいわ」

 生まれも育ちもニッポンポン!背中に真っ赤な旭日旗の刺青があるわ! 大和娘ことをしんぎゅらりてぃ☆さちこ! 低迷し没落した日本は私が勃興し直すわ! 鍵は私しんぎゅらりてぃ☆さちこ! 日本勃興党! しんぎゅらりてぃ☆さちこ! 振り向いてみたけどアルミのブラインドから漏れ出すギンギンギラギラの夕焼けが差し込んでいるだけで木村蛙はがっかりした。

「いたのか?その何とか幸子言うのは」

「いえ、いませんでした」

「そうか」

「陽の光でしたしんぎゅらりてぃ☆さちこなんてなかったんだ」とうっとりした木村蛙の頭にはもやっと伏木の顔が浮かんだ。

 もう会ってくれないかな、なんて思ってしまう警察が何かのようでぼくをつかまえたもん。牢屋に入れられちゃうそれはそれでいいかもしれない。三食では無いかもしれないけど、何人部屋の牢屋ならしんどいかもしんないけど、飯と住処と相手が得られる。

 天井と床と騒音と川のせせらぎと虫の猛攻よりはうんと快適な生活かもしれない。好き勝手行動できないけど、案外まえからどこ歩いても言っていたし、風景に溶け込めてなかったし、ある意味阻害されていたから、そういう無機質なところにぶち込まれるほうがいいかもしれない。

「あーもう君帰っていいよ」

 警備のおじさん2人に担がれて地上にほっぽり出された。あれ?なんで地下にいたのに陽の光がさしたんだ? あの部屋はどこなんだ。うねうね木村は気になりだして、もう一度見に行って確認したいけれどやっぱり怖くてためらう。日がビルとビルの間に挟まるように落ちていく。曇り空だったのかななんて考えているとずっと音と大雨に当たる気がして、そうやって降る雨って何だっけ、道行く人に次々声をかけたくなってたけど何年か前だったが、不思議と雨に当たった夕暮れの町、彼女が「すごい夕立だったね」と言ったのを思い出してでも何でそれがそんなに印象的に残っているのか、覚えてなくって思い出せなかった。ああそうか彼女の首筋に髪が張り付いていて、シャツもびたびたでお腹にもまだらの模様みたいに貼り付いていたり貼り付いてなかったりして、ぼくはまずしんぎゅらりてぃ☆さちこが解けたんだ! と木村が浮いた。

 

  •  沢ベン

 夏休みの最後の週、よく来る丸坊主の沢部くんが魂を抜き落とした顔をして児童センターにやってきた。伏木のことを「なーさん先生」と呼び、界隈のガキンチョの中でひときわ顔のきく、やんちゃ子である。沢部に集まった同級生の野木くんや島原さんや石作ちゃんに彼はひとことも口を開かなかった。

 外は人間が出歩くには生死の問われる暑さで、すぐに冷房の効いた図工室の隣の小上がりに連れて、ポカリスエットを与えると、ようやく喋り始めた。

「なーさん先生俺みたんだ、丘の向こうに大ショッカー団のアジト! みたんだ!」

 えー大ショッカー団だ? 古いなぁ沢ベン、そこはロケット団だろうといつものポケモンのゲームをしてるメガネのサトシが涼しげな顔でそういう。

「丘、丘ってあの学校の上の丘だよ!竹藪より上の!」

 あー、暑さで頭いっちゃってるわと石作ちゃんが花柄ワンピをバタバタさせている。確か先週お母さんと都市圏のデパートで買ってもらったと言っていたが、昨日も彼女が来ていなかっただろうか、伏木ナオは首をかしげる

「沢ベン麦わらアレルギーでしょう」と野木くんがいった。

「ルフィが嫌いなんだ」

と吉井くんが沢ベンをこづいた。

「自分のこと海賊だと思ってるんでしょ」と石作ちゃんが小馬鹿にして沢ベンをこづく。

「ちげよ俺も嫌いなんだ」と沢ベンが二人にかるく仕返した。

「麦わらよりキャップだよやっぱ」

と野木くんがいった。

「野木くんのそれどこで買ったの?」

「あーこれ、この前行ったフェスで父さんが買ってくれたんだ」

「へーいいなぁ」

「フェスって何」

「そんなのも知らないの沢ベン」

「やーい時代遅れ」

「どこで知るんんだよそんなことと」

 沢ベンが泣きじゃくる真似をするとさっさとみんな体育館に行ってしまった。

 ちょっと沢ベン君が泣いてるよ、とみんなに伏木は言ったが、その後ドッチボールに巻き込まれてしまった。閉館間際まで続けられて、中盤から野木くんにボールが当たらないことからゲームが終わらなかった。身内内野はボールをとれよ!とヤジを飛ばし、敵内野、外野ともになんで当たんないんだよと消耗しきっていた。伏木もバテて外野で給食大好きの吉井君と伸びていた。

「先生、暑い。エアコン」

「ついてるよー」と壁の操作パネルは冷房25度。

 うそだー、壊れてるって、つべこべ言わず、さっさと決着つけなさいよ、と言っていると、吉井くんが伏木ナオにさっきのあいつの言ってることさぁ先生、と切り出してきた吉井くんは汗だくでシャツにシミが付いているわ、髪がテカるわ、でタオル持ってきた?と聞けば、忘れたーと言う。仕方ないから特価で買ったペーパータオルをあげるとこれスーッとすると涙を流して笑いこらげた。

 

 それでね先生、と吉井君が落ち着いてきてようやく口を開け始めた。もう4時46分で他の子が片付けを始めている。

―あ、ヨッシーずるいんだ!

ヨッシー卵産むの?

―卵産むからお腹膨らんでんだ!

 片付けに参加せず、そそくさと下駄箱の前でサンダルをつっかけて履く女児たちに受付窓口に笑われ、吉井君が赤くなっている。

「あいつの言ってるショッカー団って何」

「なんだそんなこと?」

「そんなこと」

「ショッカー軍団はね」

「あ、ショッカー軍団か」

仮面ライダーの悪役ね」

「アナザーライダーじゃないの?」

「それ今のでしょ、あ、もう終わるんだっけ」

「てか先生みてるの?」

「え、あ、いやーうん、みてる」

「みんなに言っちゃおっと」

 仕事上子供の見てるものは見ておいたほうがいいかなあ、と休日の日曜の朝にトースト片手に見るようになったけど、物語に注視すると、ちょっとこれは小学生には難しくないだろうか?

「ショッカーって昭和よ」

「もう令和だぜ」

「そうだねなっちゃったね」

「先生何年生まれ? 昭和?」

「平成だよ」

「ぼくらと同じじゃん」

「っても平成7年」

「え、ぼく21年! 勝った〜! 若い〜!」

 若いだろ普通、伏木は苦笑いした。この子が生まれた年、私は14歳だったのか。ちょっぴり伏木ナオが驚いた。

「じゃあなんであいつショッカー知ってんの?」

「お父さん仮面ライダー好きなんじゃない親子で見るって大作家も言ってたよ」

 吉井くんは、それはないね、といった。

「だってあいつお父さんいないよ」

 

  •  沢ベンとの探検

 沢ベンと吉井と伏木ナオは閉館後、小学校の裏門に集まった。沢ベンのいう、例のショッカー軍団のアジトを調査しに行くことになったのは吉井くんがショッカーが見たいなどと暴れたからだった。

「なーさん先生ありがとう!」

 目をキラキラさせて吉井くんは伏木ナオに飛びついた。沢ベンは泣きべそのあとがのこったようにしゅんとしていた。吉井君を睨んでさえみえた。

 裏門は山道のゆるやかな地点にあって、そのまま丘を登る形で道が面していた。すぐに丁字路でぶつかるのだがこれを舗装された道の話で実の所の道がそのまま直進する形であった。雑草が伏木ナオの背など簡単に隠してしまうほど高い。

 裏門に自転車を停めてきて正解なほどに、路面は砂利と水たまりだらけですぐ横を小川が流れていた。砂利道は小川が田んぼの脇に食い込むとあぜ道になった。芝生が少し伸びたほどの雑草が田んぼの茶色の泥水の間に橋のように続いている。

「こっちであってんの沢ベン?」

「……うん」

 日があからんできた。

 雲が長く筋を張っている。沢ベンの顔が頼りないないのは泥水に落ちるのが怖いのか、吉井くんに余計な興味を抱かせたことからだろうか。

 田を外から囲うように雑草が何重にも群がっている。あぜ道を過ぎた向こうには、林の中に入り込めるようにトンネルの入り口のように切り開かれている。あぜ道は細いから、沢ベン、吉井くん、伏木ナオの順に歩いた。沢ベンが林に入ったとき、吉井くんがまだ行くのかとうめいた。

 こわいの? と伏木がきくと、こ、こわくねえし、なーさん先生はこわくないの? と吉井くんがきいてくるからわざと怖がったフリをすると威勢が良くなって、じゃあなーさん先生守ったるよ! と言い出してすこし頼もしい。

 ふたりして林に入ると沢ベンがずんずん森の奥へ進んでいた。吉井君が根につまずく。よろける。足元が落ち葉だらけで一歩がずぼりと沈んでいく。スニーカーに砂や枯れ葉が砕けた欠片がはいりこんでこそばゆい。

「おーい、まてよ沢ベン」

 森の地面は沢ベンの進んでいった方につれて、空に向けて斜面になっている。細い幹の木をつなぐように、掴んでは上がっていくと、足元の落ち葉がすっかり膝下まで浸かる。沢ベンは斜面の上のほうの木枯れのかげで立ち止まっていた。

「ひゃっ!」

 足元に何か粘り気のあるものが出てきた気がした。ぎょっとする吉井くんは周囲を見渡して、ひいひいと電気を注がれたように飛び退いている。

「先生蛇?」

「ううん、何か、もっと滑っとしてた」

「蛙?」

「ううん、もっともっと長い」

「じゃあやっぱ蛇じゃない?」

 吉井くんと伏木の間の落ち葉の下で何かがうごめいた。うごめいた、と言えば落ち葉の重なりがぶつかり合ってかさかさとするだろうが、今のは違う! 上へ明らかに打ち付ける、はねつける動きだった。途端、舞い上がる枯葉のいくつかに、反射的に身構えて、あるいはのけぞってみると、そのままバランスを崩して坂の下の方へ伏木ナオは倒れかかった。なーさん先生! 吉井君の叫びと彼らの伸ばすこどもの腕が伏木の少し遠い先で宙をさらった。ぼふっ! と言う空気を潰す音と、同時に枯れ葉の破れるいくつもの音がする。伏木ナオの視界の両端から暗がりがガサガサ物音を立て飛んでくる。虫の音がする。と、また、ぼふっ! と足元から音がする。吉井君が悲鳴をあげる。ガサガサと詰め寄ってくるのが分かった。なーさん先生、なーさん先生! 枯れ葉の海から引き抜かれると音から解放された。

 吉井君の手によって引き起こされた頃には足元をうごめく何かの音は消え、沢ベンの姿は森の奥に行ってしまったらしい。坂の上に何かまだあるのか、この枯れ葉が積み上がった足下では進行を邪魔される。

「なーさん先生もう帰ろう、俺もういいや」吉井君が弱々しくそういった。

「これ以上奥に行くのは危なそうね」

「もうおれ、いい」吉井君は繰り返した。

「沢君どこー!」

 森はしんとしている。たまに森の遠くから内側をさらっていくほどの風が木々の小枝、枯れ葉を揺らし、振り落とそうとしてくる。ゲジゲジとした毛虫も降ってくる。

「沢ベーン!」

 森がぐーんとうねりを上げるみたいに細い木々が揺れる。

「なーさん先生もう沢ベンおいてこうよ」

「え、それはできないでしょう」

「なんで」

「だってさー沢ベンくんは吉井くんと同じ児童センターに来る子でしょ同じぐらい大事だよ」

 伏木ナオは紋切り型のことを駆使してそれっぽいこと言ったつもりだったが、吉井君は首をかしげている。

「なんで沢ベンと一緒なの意味わかんない」

「いや、あのねどっちにしろね」

「なんであんな変な奴と一緒にされないといけない」

 伏木は木村蛙のことをふと思い浮かんだ。このタイミングで想起したって事は彼に対して何か失礼かもしれない。

「吉井君、沢ベンは変な子じゃないよ」

「いや変だ!変なんだ!」

「変な子なんて言ったらみんな変な子みたいなもんだよ」

「沢ベンはお父さんいないし!」

「吉井君!」伏木は怒鳴った。

 この仕事で初めて怒鳴った。

 なんならこれまでの仕事の中で初めて怒鳴った。

「私のお父さん死んでるよ」

 え、キョトンと吉井君は口をすこし開けた。まじ?

「私のお父さんはね、家に潰されて死んだの」もちろん嘘だ。伏木の父は実家の富山でピンピンしてる。リビングでテレビばっか見てる母と大違い。

「そして吉井君、吉井君のお父さんだっていつか死ぬ」これはきっと本当だった。

「そしたら吉井君も変なやつ?」

 ううん、吉井君は首を横に振った。

 伏木の父は昨年だったかに放送されたNHKのど自慢に出演を果たした。

 オーディションから一貫して柴田恭平の「ランニングショット」を歌ってノリノリで足をなめらかに踊っていたのに、本番では舘ひろしの「冷たい太陽」に変更してしまい、歌い出しの「あいらびゅ〜うそにぬ〜れ」で鐘が「クワーッン」と鳴っちゃって、大体近所の連中から「館山のタカ」と呼ばれるになった。大恥かいたと伏木の姉が、今年から大阪に住んでる元彼の今カノの家に転がり込んでガールズライフをしてるらしい。母はテレビばかり見てる。韓流ドラマで歴史物を暗記するくらい見てる。伏木にはどの回も同じように見えてしまった。正月に帰ろうとお盆に帰ろうと、そっけなく韓流ドラマ見てる。

「吉井君のお父さん死なないの?」

「うん、死なない。だってスーパーマンだもん」

「でもスーパーマンクリプトナイトに弱いよ」

「クリプトンなにそれ」

 わー、ニワカじゃんってとつつくとだってスーパーマン見たことないもんと言う。お父さんクラーク・ケントじゃないのかよ。

「じゃあさ!パパ、アイアンマンだから!」

「え、パパ、リアクターで生きてるの?」

「は?なにそれ」

「リアクター」

 伏木の父親はリアクター駆動ではなかったけれど、姉貴が、元カレの今カノはたしか水素電池駆動してるってまじうけるって話してた。ガタガタ言うな、鞄にするぞ!が口癖らしい。かばん職人。

「パパそんなんじゃねーし」

「あーもういいわ」

「なんだそれ」

 日も暮れてしまう。

 吉井君を帰すにも沢ベンが、沢ベンが探せば吉井君が駄々をこねる。沢ベンを探さないと帰れないし、そもそも本格的に事案だ。吉井くんのマザーに苦情を訴えれば伏木の立場が危ない。

 こんなときに木村蛙がいてくれれば良かったのに。手分けして探せれるのに。

 

  •  カビ

 木村蛙は迷走していた。壁のない部屋で迷走していた。

 壁のない部屋で過ごしていた頃、夜な夜な読んで途中で突っ伏して曲げまくっていた文庫本が懐かしい。壁の中で迷走していた。壁の中にはいなかった。天井と床を迷走していた。壁はなかった。今や川に流れ、泥と排水によってさらに汚されているに違いない。また、「失われた時を求めて」を買い直す気にはなれない。新刊書店に入ろうとしたら店員に白い目で見られたし、古本屋に入ると秒で「今取ったよね」と言われ1冊も手にすることなく逃げ出した。もう河川敷には住めないし、頭の中ではしんぎゅらりてぃ☆さちこでいっぱいだった。きっと神の啓示だ。神の存在を否定していたくせに、こうも考えるようになってしまったのは何故だろうと木村蛙は呆れていたけれど、俺が神なのかもしれないと案内を思っていたから、待っていたように大雨が降り始めた。

 しんぎゅらりてぃ☆さちこの啓示は桃色の光線だったけどホースから放たれるストレートの水圧で殴られたような心地だった。フィリップ・K・ディックで似たようなことになる小説が確かあるけれど、ラリってはいない。だがそれが誰に分かるのだろうとも木村蛙は考えた。向上心。

 このごろ木村蛙はハローワークに住み着いていた。待合室のホールから見える中庭でしょっちゅう炊き出しが行われていたからだ。

 まず無職のカビと呼ばれる、首筋から鎖骨にかけて肌が苔に食われている男と仲良くなった。

 何も職がない連中がたむろってる、と木村蛙が言うと、それはとんだを間違えだぜ、と彼は答えた。

「俺ってば仕事は取らないんだ」

「取らない?」

「ああ、自分から取りにはいかない」

「なんでだい?」

「選考があるからさ」

「面接とか」

「そうさ、あれで人が見られちまうんだ。ずいぶん人間ってもんを薄く見ちまってるよ。5分程度張り合って人間を見るなんて人間を冒涜してるようなもんさ。こっちゃ取り繕ってまではしてね、馬鹿馬鹿しいんだよ」

 木村蛙にはなんだかわかる気がした。

「仕事は俺のことを心底欲しがってこっちに来て欲しいんだよ」

 そういう無職のカビはこれまで働いこと働いたこともないらしい。ハローワークの職員はこの手の人間は気に止めない。好き勝手居座って食べ物だけもらう。

「収入、あるの?」

「ないよそんなの。けど生きてはいけるね不思議なことに」

 それは炊き出しの職員のおかげだろう。カビはそのことに気づいていない。

 穴だらけのジャケットの中年の軍団とも知り合った。手元が狂って豚肉の入っていない豚汁を芝生にぶちまけた時、そそくさとあざ笑う万年無職のカビと違って、穴ジャケットの中年の1人は「俺の食えよ、てめえの落としたやつ、俺がきれいにしておくからよ」と地面をすすり始めた。

「世も末だ、こんな若者さえ俺たちの仲間入りとはね」リーダー格の借り上げで黒縁メガネの男がそう言って鼻を擦り始めた。

「若いの、なぁなんで俺たちのような奴らん中にゃ、女がいないか知ってるか?」

 彼の隣のゴボウみたいな顔の男が股をかきながら聞いてきた。木村が答えようとしたところで被せるように彼は言った。

「女には愛があるから」

 ひゅう〜っと一同が口笛吹いた。

「けっ、そんなはずないね、いつの時代の女だよ全く!」

 カビがぶつぶつというと、静かに穴ジャケットの一堂が彼をしょいあげて空中に投げて上下させた。

 

 そういえば伏木ナオに見せた、金の卵、あれはどうしたか、ふと木村は炊き出しの中華飯のウズラの卵を見て思い出した。すっかりもう冬だった。粗大ゴミの破れた毛布を巻いて寒さを凌いでいた。

 お、カエル、ええなウズラちゃん、くれんか、わしは白菜しかあたらねえわ、とカビが箸を突っ込んでくるから、とっさには脇へのけぞった。

「なあ、人ってさぁ」

「なんだ生物の授業か?わしは生物できたほうだぞ。オスとメスが交わる、新しいイノキが生まれる。そいつがリングで戦う、いっちょ上がり!」

「いいんだイノキは。人間だよ人間」

 カビが要領得ないから、そばで集まるグループに近づいて聞いてみることにした。白い目のあいつだ

「あのすいません」白装飾の細身の男が4人ほど同じ髪の長さで目が死んで唇が突き出た若い男たちにまず声をかけた。取り巻きの1人がなんだおまえと詰まりながら聞いてくる。

「にんげんって、卵、産めますか」

 は? 何言ってんだ、とその白い服の男たちはすぐにはこたえられなかった。カビが後ろから抱きついてきた。中華飯の中のウズラの卵を狙っている。

「産めるわけねーだろ」

 ようやく1人が口を開いた。おれたちはホニュウルイ、おっぱい吸って大きくなったろ?

「おっぱいってなんですか」

 木村蛙はきいた。

 取り巻きの四人が宙で何か球体を掴む手を振り回して呻いた。

「おまえ、そんなことも知らねえの」

「あ、あーはい、は、その、すいません」

「おまえ女も知らねえんだな」

 取り巻きの1人が白装飾の袖をたくし上げてわざわざ唾を吐き出していってきた。木村蛙の脳裏にふと伏木ナオが浮かんだ。

「お、女は知ってます」

「へえ?どう書くか知ってんの?」

「くのいち、ですよね」

取り巻きの1人がむせた。

「ニンニン」取り巻きのひとりが唱えた。

「ニンニン」カビが唱えた。連鎖した。あたりのものがつられてニンニン、ニンニン、と言い始めた。

 人間主義だとカビは叫んだ。

「静まれ!」

 白い目のアイツが叫んだ。

 炊き出しに集まった老若関わらず職探しと職探しのふりをしている男たちが、血の気が引いたように黙った。白い瞳の男はポケットからアルミ箔を取り出してむしゃむしゃと噛み砕き始めた。よく見ればそれはスプーンだ。あ、アイツ様と取り巻きがなだめた。

「女は、三角関数だ」

 白い目のアイツははそう叫んだ。アルミ片が頬にまで飛んできた。「アイツさん初めてが壮絶だったらしいんです」「2時間物のドラマだよな」「いやベストセラーだよ」「本屋大賞かな」「そうそうそんな感じ」と取り巻きの人は口々に言う。白い瞳の男アイツは目を閉じていて、彼らの言う事は聞いていない。そして静かに木村はこちらへ来いと手招いて、近づいてきたところで彼の首を猫を摘むように掴んで優しげな好青年の声でこう諭した。

「女なら持っている」

 きっと卵、金の卵のことで、持っていると言う見解でいいのだろうか。

 アイツはうなづいた。

 白い目の男アイツは4人の取り巻きと手足を組み、騎馬隊の組体操のまま、炊き出しの会場を「嵐が来るぞ」と繰り返し当たり散らし、駅のほうへ消えていった。

 なんのことだと皆が皆慌てると、どさどさと機動隊が現れて、囲まれて集団逮捕された。カビが警官とワルツをしようとして奥歯を折った。

 

  •  流刑

 3日は船に揺られていた。4日だったかもしれない。カビは5日だと言った。誰もあてにならなかった。頭が重く足取りもおかしい。ぶち込まれたコンテナ入りの大きな船室から何日かぶりに出ると、すぐにはしご上がらされた。縄はしごのようなものを船のヘリから甲板に続いている。カビの後から来た際の若者がそれを上るよう、上から怒鳴られた。

 あのとき、警官隊にしょっぴかれ、廃校の体育館に集められ、聴取を取られ、あの炊き出しに合わせた―警官、彼らの呼ぶところのー浮浪者たちは、すぐに河口の港に停泊しているコンテナ船にのせられた。コンテナで囲まれた収容室のような空間は、雑巾や汗の染み付いた腐った匂いで充満していた。誰もがむせていた。誰もが咳き込んでいた。船酔いで大体ゲロが線を引いていた。ひとり、縄梯子から落ちた。カビがニヤつくから頭上から罵声を浴びせられた。甲板に出ると、浮浪者たちが荒い雪に打たれながら整列をさせられている。警官、と言うよりかは軍人の出で立ちの暗い緑色の制服に帽子をかぶり、木村たちとは違い、背をしゃきっとさせている。背中にきっとあいつら物差しを入れている、とカビがヒソヒソ声で木村にそう言うとすぐそばを通った人に強くぶたれた。勝手に倒れ出すものもいた。大きなくしゃみをして折れた折れたと喚いて海に放り出されたものもいた。雪が肌を当て付けていく。思えばあの昼、中華飯から何も口にしていない。穴ジャケットやメガネバリカンの姿も見えた。隣の隣の列に並んでいるのが見えた。軍人風が拡声器で何かを叫んだ。木村にはそれが何を言ってるのかわからなかった。吹雪がひどくなった。カビが起き上がらないから、床にへばりついている彼の肩を叩き、気がついたかと声をかけたら返事はなく、すぐ軍人風の警官がこちらへ来た。どうしたと警官がピシャリといった。あのこの人連れの者なんですけど、木村は言葉を口にするのが久々、3日ぶり―あの中華飯の炊き出しの晩、アイツと呼ばれた白い目の男と話したあの時以来だ―だったから、うまく口が動かなかった。なんだはっきり言えと警官らしきものはこちらをどっと震わせるように言った。木村は失禁の予感を覚えた。寒さに乗じて吹き出しそうになるがきっと凝固してしまうに違いない。おい! なんだお前は! むしろ股下で凝固し始めたのはこの軍人風だった。木村は浮いていた。すでに甲板より5メートルあった。やめろ、やめさせろ、拡声器から怒鳴られた。縄だ、縄だと木村の足元で軍人風が駆け寄ってきた。組体操のように1人の上に1人、2人とまたがり、人間の積み木で、木村のつま先に迫ってくる。木村は足下を何度か蹴った。おい降りて来い、警官は黒い棒をつかんでこちらで振り回している。それを木村が見たとき随分と甲板が遠く見える。船のヘリまで見えてきた。ひどく寒い。カビがむくりと起き上がると拡声器の指導者らしい人が先導して船から浮浪者と、口々に罵倒されるボロボロの男たちを下ろしていった。船の周りは確かに海だ、と木村蛙は確かにそう見えた。波打つ海は荒いのか。そもそも先に甲板上がる途中で何人かが海に落ちている。甲板から警官や軍人もどきの連中に背中を蹴飛ばされて落ちているものもいる。ドミノ倒しのように、ひとりが蹴飛ばされて前にいたものを押し倒し、その者がまた前の者を突き出し落ちていく。鈍い音はしなかった。まだ木村の足元で3人ほどの軍人風が怒鳴っている。木村蛙はどう戻るんだったか、戻ったところでひどい目にあうのは目に見えていた。カビがその他の罵倒された人々が海を歩きはじめた。妙だと思い、ぷかぷか浮いて真冬の海に進む一団から、カビを見出してこっそり加わろうとした。木村の移動に口を開けて目で追うのみだった3人の軍人もどきはすぐにその隊列に追いつこうとした。しかしすっかり似た格好の浮浪者の中で、ついさっきまで浮いていた男を見つけるのは簡単ではないと考えたのか、それからしばらく生み出し道を進んだから木村に厳しく言う、問い詰めてくる警官もどきはいなかった。木村は気が気でなかった。男たちは懸命に、そして慎重に海のような足元を凝視して歩いていたので、木村が降りてくることに気づくものはほとんどいなかった。船の影が遠いひとつの点になると、列が止まった。全長50メートルほどの1列になると、先頭から黙々と足元を掘り始めた。どうやって降りてきたのかを考えていた木村は、隊列が前から後ろでしゃがみ込み、かじかんで真っ赤な手のひらで足元を掘り進める、その動作に頭ひとつ抜きんでたように遅れた。どうしており立てたのか。特殊な体の動きをしたのだろうか。それは例えばどういう動作だろうか。首の後ろへ右足のかかとをのせ、左足を右の尻の付け根にあてがい、左手と右手で顔作り、それを寝顔にする。いやそんな入り組んだ手間のかかることでは無い。単にそう考えた、というかそうしたと思っていたから、なら特に慌てる必要では無い。そう納得した途端、また怒号が木村のほうに聞こえ、すぐ前と後から男がぞろぞろと近づいてくる。とっさにしゃがみ込み、よく知らないふりをした。木村蛙は、これは何をしている、何をさせられてると聞くと、しわくちゃの中年の中太りは静かに「土、取ってんだよ、みりゃわかんだろ」とめんどくさそうに答えた。でも土には見えない。ためらっていると、早く取り上げなければなならないと中太りはいった。

「甲子園の土、あるだろ、あんなもんだよ」

 木村蛙には甲子園が何かわからない。 

 

 男たちの指に生えて伸びきった黄ばんだ爪に、土の細かい粒子性がこびりつき始めた。爪の生え際まで土が入り込んでいる。木村の口角がひきつった。

「おい、何笑ってんだよ」

 滑稽か、と先の皺くちゃの中太りが睨んできた。彼はほとんど目が開いてなかった。男は土埃で目があかないと言う。木村にはとても気なるものではなかった。

 木村の爪はさして彼らほど伸びきっていない。しかし汚れるのには少し抵抗があった。遠くの方でひとり、抜け出そうとしたのか。列を外れた者がいて軍隊風の男たちに連れてかれた。空気が割れる音がした。木村蛙とせっせと爪を土に立て始めた。腰が浸かるあたりまで降り進めた頃には、指はほとんど感覚がなくなっていた。そういえば、少し前に文筆を仕事にしてみたいと言う気が起こっていたことを思い出した。土は湿り気のあるしっとりとした肌触りで、スコップと言うよりかはショベルカーの爪のように指を差し込むと容易に土壁がほつれて砕ける。それを掴み、ある程度まとめると穴から放り出した。

 いつしか隣の皺くちゃも一言も口にしなくなった。

「曇ってきたから切り上げるやら「曇ってたら切り上げる」と穴を掘る列の果てから伝言で穴を掘る隣の男から男へと伝わってきた。胸のあたりが地面になったところであった。紫色の雲がぐいぐい広がっていく。星明かりが遮られ始めた。隣の男その隣の男それに気づいてなかった。

 木村は隣の皺くちゃに「めっちゃ曇ってきましたよね」と聞こうと思うけどとても口に出せない。雨が降り始めた。大半が雨だと思った。列の人々が掘り進めた堀に土砂が雨水と流れ込んだ。茶色い水に膝まで浸かりきった。

「もういっぺん止めとかんと」と隣の皺くちゃが言った。

「今に掘る意味がなくなってしまう」

 穴から出るのにひとり、土水と溺れた者がいたと口々にきこえた。笑い話のつもりだろうか君の姿を探したが見つからなかった。誰もがボロボロの土だらけの古着を大粒の雨で流して肌に貼り付けている。あついあついと喚く声がした。ひとりの背の低い鼻の大きな男が帽子をかぶって頭を振ってもだえている。肌が炎症起こしてるらしい。脱がしてくれと周りにいた土砂色のドブ姿の連中に彼は懇願するが、誰も手を出さない。警官風が堀の向こうから歩いてきた。溝に沿ってまだ下に残る者はいないか、彼らの呼ぶところの不労者とは反対側から溝を覗き込んで歩いてきた。

 誰もが口を閉じて丸く背を曲げ、夜まで吹き荒れる雨風にじっと固まっていた。背の低い鼻の大きな男だけが地面に背を擦り合わせ、頭を切り放された芋虫のように次第にうごめいていた。男の声が枯れてきた。助けてくれと叫ぶ声に警官風と軍隊もどきはギョッとした。そいつを黙らせろと短く軍隊風は警官もどきに言うと、警官は反射的に脇に手に入れてから何やら点検するような視線と、取り出したものの先を男に向けた。割れる音が轟いて鼻の大きなあの男が静かになった。

 船はもうなくなっていた。雨の中ひたすら歩かされた。飛び散り、手の甲にのる雨滴を掬い取り、手のひらで集めて両手で揉んでこそぎ落とした。顔面も土で感触を失わせた手の平で拭った。誰もがたまっていた。どれだけ歩いても、向かって右手に掘り進めた溝が続いていた。どうやらそれを木村しか気づいていないらしかった。誰も反応しない。誰も触らない。木村蛙のそばにいる誰かに伝えたかった。目の前歩いてる同じように汚れた、自分より年上なのか下なのかわからない者に伝えたくなった。共感でないにしても気付いて欲しかった。うしろの、自分に続いて歩く、まだ振り向いてないからどんな顔してるかわからないが、彼にも知らせたかった。だが木村蛙はしなかった。できると思えなかった。もしかすると元から溝があったのかもしれない。溝の反対がこの一団に沿行する警官もどきに聞いてみようとしたが、鼻の大きな男の、胸の中央にぽっかりと空いた、あの穴の中が溝よりも深く、木村にこびりついた。口が開かない。

 

  •  新聞

 餅つき大会のあった翌朝の朝刊をその次の週の午前中に伏木は読んだ。冬休みも欠かすことなく吉井くんや野木くん、島原さんは集まって児童センターに通いつめてくれた。

石ちゃんをお受験するんだって先生」

「へぇ、すごいじゃん」

 島原ちゃんはちょっぴり寂しそうにしていた。夏休み以降あまり見かけなくなっていた石ちゃん。石作ちゃん。

 沢ベンはいつも図書室で図鑑をうつ伏せになって読んでいた。カーペットを冬場に入れていたが、合皮の皮に包まれたクッションを被せたになった幅の広い椅子が本棚と扉の間に塀のように並べられ、利用する児童が跨るなり座るなりして本を読んでいた。沢ベンの読む図鑑はいつも「生物②海の生き物」でリュウグウノツカイの長い体を見開きで写したページをむしるように見えることもあれば、貝類やイソギンチャク、クラゲなど怖いもの見たさで見てみてはバタン! と勢いよく閉じることもあった。休む間もなく「生物①陸の生き物」を開いては哺乳類の赤ちゃん集めたページを探して、めくる、めくる。

 図工室で工作をする吉井くん達と混ざらないのー? とこっそり覗き見していた伏木は声をかけると、プスンと「いいです」と言う。敬語がいつしか使えるようになったのかと少しぎょっとする。小学4年の子が、敬語がつかえるのか。自分はどうだったか、なんてわからないし覚えてもいないが、やけにぶっきらぼうな態度をとるからこれは何やらテレビドラマの影響かもしれないな、と思い、そういえば自分はめっきりテレビドラマ見なくなった、今はどんなテレビドラマをやっているんだろうと館長が購読しておきっぱなし、あるいは工作の材料になる新聞に手をとった。一面を飾る事件すうっと伏木の目がを持っていかれた。

集団自殺か 身元不明の投身自殺今月に入って4件目

10日未明、木町2丁目付近の雑居ビルの屋上から飛び降りたとみられる2つの遺体が周辺住民からの通報で発見された。遺体はどちらとも損傷が激しく、身元確認が取れていない。外傷は地面に叩きつけられたもの以外に、共通して指の爪が剥けている、指が捻挫もしくは突き指、凍傷が見られる。服装はどちらの洗濯が年単位でされていないほど汚れがひどく、汚物などの付着物も見られることから、市の衛生管理センターは似たような遺体らしきものを発見しても素手で触れないようにと注意を呼びかけている。木町では先日6日にも6丁目の交差点から民家にかけて10メートル、4名の投身自殺とみられる遺体が発見されたばかりで今回の2名含め、警察は関連性を捜査中である。』

「なーさん先生!たいへんなの!」

 吉井くんたちより下級生の子が管理室にはいってきた。どうしたのと聞き返すとボールが引っかかちゃった、と言うから体育館についてくと、確かに天井と可動式のバスケットゴール台の間に子供用のプラスチックボールが挟まっている。先生がとるからね、またなっても動かさないでねと伏木はバスケットゴールを少し動かしてボールを落とした。アリガトーセンセーとボールを抱え、児童はまた駆け回った。跳び箱を全部積み上げてしまうと中にすっぽり隠れるくらいの子が天井まで投げられるだろうか、すこしその子に感心してしまった。

 

その日の帰りの時間、つまり閉館の時間になると吉井君達がようやく沢ベンに声をかける姿を伏木は見かけた。

 なんだいたんだ、と吉井君はそっけなくいった。

 いつもいますよ、と沢ベンはこたえた。吉井君は野木君と顔を見合わせた。少しして、森からどうやって帰ったんだい、と吉井君はいった。

 なんのことですか

 あの夏休みの事だよ、吉井君はは詰め寄った。

 知りませんね。

 先生と探しに行ったんだぞ

 吉井君は声を少し上げた。

 何をですか。

 沢ベンをだよ。

 なんでですか。

 それは、と吉井君が詰まると、沢ベンは靴をすかさず履いてさっさと帰ってしまった。変わったあいつと野木君がこぼした。

 森の件のあとも、何食わぬ顔で沢ベンは児童センターにやって来る。あのときのことすっかり忘れたのか、そのことに触れることなく、いつも図鑑を広げている。伏木はむしろ彼に、あるいは吉井君にに咎められているように感じた。

 

  •  猫の毛布

 木町は木野川を伏木の暮らす野町の対岸にある町だ。ちょうど木野川の湾曲し、八木川と囲む形で中洲、と言うべきか、川に挟まれた土地だった。木村の住んでいた橋の下は、たしかこの木町4丁目に架かる橋の木町川でないほうに渡った、裏にあったと記憶している。ひさびさに伏木は野町への帰り道、橋を二つわたって八木川のむこうへ行ってみた。丘にそう繁華街を、アルバイト代で貯めて買ったスクーターでサア〜っと横切ると、以前来た時よりも人気の薄い街並みにになっていた。知らない店がえたいの知れないものをぶら下げていたり、いくつかの映画館や寂れた喫茶店や事務所などだった場所が更地になっていた。丘が途切れる方へ下ると八木川に沿う形で細い道に出る。ガードレールに尻を持たれかけてぼんやりタバコを吸う背の低い老人が線のような細い目をして伏木のスクターが横切るのを見ていた。廃工場やピンク色の家にどうやってたどり着いたか、もう覚えていなかった。川沿いの細い道にプランターが無造作に並べられた空き地が川の向かいに見えた。模様を作ろうとしたか定かではない。直方体のプランターに枯れて朽ちた花の茎が何本か土に突き刺さる形で残っている。空き地の向こうにところどころ剥がれた木製の柵があって、少しだけトタン屋根のてっぺんが覗けた。プランターの墓場の中にに猫が何十何百とまだわからないが、捨てられた毛布の寄せ集めのようにひしめき合っていた。一月の夜に猫が? 伏木は首を傾けた。寒さをしのぐべく猫が車のボンネットの中に入り込んでしまったりすると聞くが、野に群がるなんてことがあるだろうか。そもそも冬場、野良猫がいる姿を伏木は見たことがなかった。野町のよく行くとコインランドリーでごくたまに見かける事はあるが決まってそれはせいぜい11月位までだ。コンテナをくり抜いて、洗濯機を並べて、ガラス張りにしただけの簡易な誰が管理してるのかわからないコインランドリーだ。地面とコンテナの間にコンクリートブロックをかましているから少し地面から隙間がある。年配の人には向かない。扉がよく開けっ放しだから虫が入り込む。そのせいか伏木はが行くとかろうじて一台だけ残っていてそのほかすべて稼働している。そして取りに来るもの、洗濯機の中身の持ち主とは一度も遭遇したことはない。背もたれのない、丸椅子がひとつだけあって、クッションがひしゃげていて、よく地方紙が載せられている。退屈を紛らわすのに洗濯が終わるまでの間その椅子に座ってその冊子に目を通すが、だいたい2、3ページで飽きてしまう。すると大体地面の隙間から猫が顔を出すのだ。

 プランターの墓場にしゃがむと丸くなった猫が背を合わせている。猫がお互いの体を寄せ合わせて眠る習性があるのだろうか。次の出勤の時、図書室で沢ベンと図鑑を読んで調べようかなと考えてると、まとまりの中で目が1つ伏木のほう向いているのが見えた。薄暗い中、猫の背がうっすら見えるのは、電柱について街灯の反射に違いないし、毛布から出てきたビー玉を見つけるようにわかる事は自然なことだろう。その目はひとつだった。一対で光っていたのではない。1つの目玉が光っていたのだ。車のライトが遠くで横切っていった。川のせせらぎはしとし聞こえてくる気がする。虫の音も鳥も泣いていない。車の往来も薄くなってきた。剥がれた柵の、向こうの家屋の明かりが灯って木板の間からにじみ出てきたので、とっさに退けようとするが膝を折って抱えるように座っていたから尻餅の形で地面に手をつける。草の枯れた軽さと冷えた地表が土に触れてわかった。手を引っ込める程度ではない冷たさだと手のひらに草でも貼りついていないかと体勢を直して払うと黒ずんでいる。

 手袋は職場でなくしたか置いてきたか、伏木はここで自分が素手で帰っているのに気づいた。冬だというのにやや無茶だと悴んで手が震えていた。コートの中に入れておけば問題ないと考えていたが思えば一昨日だったか雪が降ったとき、児童と雪合戦をしたか濡らしたままだった。猫が一斉に飛びのいた。彼らは一昨日の晩、どうあの雪を乗り越えられたのだろうか。一目散に右左上下駆け抜けていく毛の塊がもともと本来居た場所へ巻き戻しを見せられているようだった。柵の向こうから話し声がした。慎重に立ち上がり、夜道に紛れようと少しずつ後ずさりをすると、さっきの猫の1つの目玉がまだこちらを捉えている。こちらに歩み寄っている。

 舗装されている道まで出ると猫が、街頭に照らされて全容が掴めるほどになった。

 右耳と右目のない猫だった。顔の斜め右上からアンパンマンがカバオ君に分け与えたときみたいに頭がかけていた。柵の向こうから引き戸の玄関が閉まる音がした。明かりが消えると街灯も消えてしまった。隣の路地の向こうの電柱に着いた街灯とも消えてしまった。スクーターのライトを頼りに逃げるように帰った。アパートの外付階段や廊下の明かりも消えていた。スマホの明かりを頼りに上がって鍵を差し込むんで家に入ったから、いつもよりわかりづらかった。繁華街は騒然としていたし、信号機もついていないから所々で事故が起きているらしかった。暖房機もコタツも使えなくなって、コートを着たまま毛布にくるまった。湯たんぽを作ろうと電気ケトルが使えなかった。袋ラーメンを作る時の片手鍋に水をギリギリこぼさないくらいに入れてガスの火にかけた。スマホの充電が心配になってると、もう電源はつかず、鍋の下の青白い炎だけが暗い部屋に映えた。

 

 翌朝の朝刊を館長が事務机から来客用のテーブルにほかった。館長が体育館のほうに行ってから手にとると、また遺体が発見されたと言う。丘の向こうからつながっている送電線に絡まって切れてしまった。猫の晩の停電はこれによるものだろう。焼死体がふたつと鉄塔と地面に頭を強く打ちつけた遺体がひとつ、他の送電線から20メートル範囲に散らばっていたらしい。少し雪が降ったのかしらと館長が体育館から戻ってきてつぶやいていた。

「コンロって電池式?」

「あー確かそうです」

 一人暮らしを始めた時ケチったんだったか、大家さんがサービスしてくれたんだか、中古のガスコンロだった。単一電池を使っていた。二回位交換した記憶がある。

「うちはIHだし全滅だったわ。朝、コンビニのイートインだったのよ」館長は息子さんに最近娘さんができて、夫には先立たれて同じ墓に入るつもりはない、とよく口にする。息子の奥さんに面倒な姑と思われたくなくて、夫の残した遺産でひっそりこの街に暮らしている。

「伏木さん、手袋忘れてる?」

「ああそうでした」

 忘れ物集めた箱を手にとると、そこにはないわと館長はいった。いま吉井くんが持ってるわ。

 体育館は室内と思えない位ひんやりしていて、スリッパを履いていても先端からきときと凍る気がする。足を引っ込めたくなる。窓のそばで、白くなった息を吹かして集まる吉井君と野木君と島原さんが座っている子を囲うようにして立っていた。

「いいや降ってないね」と野木くん。

「降ってたもん。あたし見た」らと島村さん。

「何時まで起きてたのさ」と吉井君。

「え、2時」

「ねろよ」

「寝れなかったもん」

「寝れないことないだろう」

「だって停電しちゃったもん」

「え、それ知らねーわ」

「めっちゃ寒かったね」

「寒かった」

「え、知らんし」

「馬鹿には寒さわかんなんじゃない?」

 短パンの裾を吉井君は必死に伸ばし始めた。足元に正座する沢ベンと彼は目があった。沢ベンは口を一文字に結んでピクリとも動かない。昨晩からその体勢のまま居続けてそのまま凍り付いてしまったのではないだろうか。伏木は飛びついた。なんだかみんながよってたかって沢ベンをいじめている風に見えたんだ。なーさん先生どうしたのと吉井君が驚いてるのよそに、沢ベンの肩をつかむと雪だるまに手をかけたようにひんやりしていた。沢ベンは3人のような分厚い上着を着ていなかった。ニットも着てなかった。マフラーも巻いていなかった。袖の伸びきったベージュのパーカーを1枚乱雑に被っているだけだった。頭を通しただけで、手首はおろか腕にそれを通してもいなかった。吉井君は、沢ベンずっとその調子と言う。むりくり袖を通していたとしても腕はかちこちで伏木ははびくともしない。なぜ館長はこの状況になんらリアクションをしなかったのだろう。

「なーさん先生」島原さんが慌てる伏木に聞いた。「雪って昨日降ってた?」

「私わかんない」

「えー」島原さんが口をあんぐり取れそうな勢いであけた。

「停電はしてたよね」とつられて野木君は聞いてきた。島原さんよりも尋問してるような真剣さがあった。

 ええ、してた、してた、伏木は答えた。

 吉井君があーんと雪も降ってないし、停電も知らねえよ、と息をそらしては喚いた。

 沢ベンが突然ぴしゃりとこう言った。

「サーカスが来ますよ」

 

  •  書き手

 

 ようやくここでぼくが登場するんだけど、天然記念物と化してしまった木村蛙を伏木ナオに仕向けてから約一年が経ってしまって、また一人ぼっちになってしまった彼女に言い寄ったのがこのぼくだ。ぼくは酒の勢いに任せてこの一年にも満たない木村と伏木ナオの関係史を聞き絞った。ぼくは聞いている最中で二回便器に吐いた。彼女は元気に我が子のように便器を抱き抱えて何もかも受け止めてくれるその虚無への穴に吐き続けている。

 ぼくが彼女の便器のような立ち回りになったのは木村を紹介したせいで拍車がかかった。休みの日の前先日は必ず電話がかかり、断片的な木村の嫌なところ愛しいところぼくに吐き続けた。夜が明けるまで彼女が疲れて寝落ちをするまでそれは続く。

 たぶんなんだかんだ、伏木は寂しいだろうと思う。まじで木村の馬鹿は何やってんだろうと呆れかえるわけなんだけど。とうとう積年の、いや一年だったけど伏木が爆発してぼくの下宿先に転がり込んできた。彼女はぼくに最低、最低、最低っとののしって殴るし蹴飛ばすし叩くし。

 ねえ、木村ってどこいったの、5本目のストロングゼロをあけようとする伏木の手を彼女の背中に回り込んで、なかば羽交い締め、なかば抱き寄せた形で止めに入るぼくに、彼女がとろけためでそうきいてきた。

 ぼくが紹介したからアレだけね、だけどさぁあいつの何がいいわけ?

 ねね、どこ?

 知らないからねぇ。

 どこなの。

 どこなのだから知らない。

 木村を私に返してよ。

 んなこと言ってたあいつ浮くし。

 いいじゃんか。

 何が。

 空飛ぶんだよ。

 あんなうわっ面の手品師の真似事で中身はどっこい人間失格。君も覚えてるだろ、ヒモにされたろ、奇生されてたじゃんか

 だから。

 よくそんな奴まだ好きでいられるね。

 てめえに何かががががだだだだ

 伏木は泣き崩れながらまた吐いた。

 中身が全て吹き出して、そのまま伏木が崩れてしまいそうな勢いだった。

 そうだ、そうだ、そのまま木村との思い出吐き出しちまいな。

 辛いことぜんぶだあーっとだしちまこう。

 そしたらちょっとよくなるから。

 ぼくはそう言って背をさすると、伏木は肘をぼくの鳩尾に突いてきて、床にブチまけた吐瀉物を黒マニュキュアの指で掻きよせて、また口に放り、啜り始めた。おいおいやめろよ汚いぞとぼくは止めに入るが今度はごんっと馬の如き鋭い後ろ蹴りをかまされてコタツの角に頭をぶつけた。じんじんしながら、ぼくは床に這いつくばる彼女の尻を流し目で見つけ、見つめた。

 あいつの何がいいんだ。

 何、なんでもいいじゃん。

 木村のどこがいいの。

 どこだっていいじゃん。

 あいつのどこが好きなんだ。

 好き好きって何。

 なんだ。

 何、わかんないの。

 ……恋愛感情ってやつだろ。

 恋愛感情って四字熟語並べておけば説明できたと思ってるわけ?

 喫茶店に入っても洗濯に行っても寝る前の電話でもぼくは問い詰めた。

 伏木が注文していたホットココアがようやくやってきた。彼女は舌をやけどするのが嫌いだが頬の裏に火傷するの好きだ。だからって頭を傾けて縦に開いた口の端にホットココアを注ぐような器用なことはしない。そんなことをすれば胸元から膝や腿にまで熱々のココアをぶちまけてしまう。 

 彼女は全然現実主義だ。ああ、ぼくは超現実主義者だ!傾いた伏木の顔面の唇が縦になって女性器のヒダと重なってヒクヒク動き始めた!

 あなたの言う恋愛感情ってどうせ体目当てモンキーに過ぎないわ。

 ……ぬっ、そんなその辺の男なら皆持ち合わせてるもんじゃねえか。ぼくは違うぞ!! だいたい君らだって白馬の王子様みたいなキラキラの夢見がちな絵空事は小学校低学年で卒業しておけよな。

 なによ、ふしだらな自分を一般論に拡大して責任逃れなんてしないで。それこそ無様よ。

 なにを! じゃあなんだ!性的でない男がいるとでもいうのか!

 なんで男にこだわるワケ?差別主義者?あんたってばきっと方とかホモとか百合とか見てたら吐き気を催すタイプでしょう。

 それとこれは違くないか?だいたい木村だって男だろ!

 木村くんは男とか女とかホモとか百合とかネコとかバイとかとかとかそんなんじゃないの

 じゃあなん.なんだよ、あいつって!

 わかんない。

 ココアを飲み終えたら喫茶店を出るつもりだったけど、彼女の腹中をあたためる優しい甘いココアいまぼくの顔面にぶちまけられ、伏木は弾かれたように店を飛び出して雪の降り続ける二月の町に消えていった。いっぱいにため込んだ冬を空が我慢できずにとめどなくぶちまけたような寒さだった。ぼくはアマアマな飛びついたココアの匂いを嗅ぎながらニガニガな心を引きずって家路を転がった。 

 

 

 部屋に引きこもって三日が経った。ぼくはここまで伏木から聞いた彼女と木村との関係を妄想まじえて滑稽に書き起こしてみた。

 現実に、実際に起きた木村の失踪の原因はわからずしましたが、きっとやつはこの雪を降らす労働に従事している。空に連れてかれて天井の寒さを小出しにしている。書いてるうちにドストエフスキーの「死の家の記録」ことを思い出した。前、アルバイト先の書店で初めてその給料で買った本の一つが「死の家の記録」だった。自然にぼくはこの妄想の中で木村蛙に天井の土堀労働の従事を書く参考にしようとした。

 途端にそれを描き続けることがばかばかしくなった。木村蛙はさっさと寒さで凍死すると思ったからだ。不労者たちは空で地面に向かって穴を掘る。空はめっきり吹雪いていて、地面から遠く離れていて、もし穴が予期せぬ崩落をもってして彼らもろとも空から滑り落ちてしまえば地面に叩きつけられて死んでしまう。車に轢かれてひしゃげたカエルみたいに。もっとも叩きつけられる空中で意識が飛んでしまうだろうが。もうきっとこの寒さだから、木村もどこかでひしゃげて潰れてるかもしれない。だが彼は空が飛べる。誰の話も聞かない彼はぷかぷか浮いてしまった。もしかするととっくの前に、雪の降る前に、木村は空から帰ってきてるかもしれない。

 探しに行こうかなと考えたが寒くて行動を起こせなかった。「死の家の記録」と紙面の伏木ナオの物語を進めた。臆病なぼくは伏木ナオに連絡して謝ることさえできなかった。彼女の物語は、断続的に、途切れ途切れ、になってしまった。

 

 夜、ぼくの悲しみ伏木ナオはスクーターで川沿いの道を走り抜けた。猫が埋め尽くされた空き地にはハリボテセットみたい二階建てのアパートができていた。スケートを停めてぼーっとそれを眺める伏木ナオを、二階の住民である髪の長いぼさぼさの女がタバコをふかしながら細い目で見つめていた。彼女は不眠症で、人見知りだった。彼女は息を潜めていた。冬の空はきゅうっと夜に沈みこんでいる。金切り声を上げてビリビリに破れてしまう。彼女はスクーターに乗った伏木には気づかれていなかった。タバコの火種が気に求めない微細なものなのだろう。彼女は夜中に時々転がり込んでくる男を待っていた。彼はヤクザの使いっ走りも見えたし、胡散臭いセールスマンに見えた。彼にはきっと奥さんだって子供だっている、彼女はタバコの火を見つめてそう思った。伏木ナオは彼女の視線に気づいていなかった。

 街にサーカスが来た。伏木ナオが毎日帰り道に寄り道をして宇宙船みたいなテントを探した。町を楕円状に引き伸ばして走った。まんべんなく舐めるように走った。普段使わない橋をいくつか渡るようになった。3日目でガス欠起こした。

 歩道がダダっと伸び続ける川沿いの道をスクーターを引いて歩いた。寒くてハンドルを握る手が手袋のなかでもかじかんだ。海風が町に冷たい心を運んでくる。いくら経っても彼女にガソリンスタンドを町は与えてくれない。さて彼女の歩いていたのは木野川のほうか、八木川のほうか。木村蛙の住処だった橋の裏を見つけてふと、彼のことを思い出していたなら。きっと八木川かもしれない。冬に枯れた河川敷の雑草が潰れて、その上をトラクターが止まっていた。海の方から枯れ草をなぎ倒して、土地を均しているらしかった。海のほうも正面にして左側湾曲していく川の右岸を歩いていたのだろうか、左岸を歩いていたのだろうか。

 秋になると岸辺を彼岸花が覆い尽くす。赤く染まった岸辺を眺めるとぼくは彼岸と此岸のことを考える。自分のいる側に咲く彼岸花はむしろが此岸花と書くべきなのではないだろうか。それと向こう側の彼岸花彼岸花であるが、向こう岸へ橋を渡るなり泳ぐなりして対岸に行くと、途端にさっきまでいた場所が彼岸に様変わりし、向こうから見ていたあの彼岸花は此岸花になってしまう。彼岸花にぼくはたどり着けないのだ。

 彼女は、伏木ナオはそのことに気づいているだろうか。もう会えない人のことをそうやって考えることができるだろうか。ぼくは木村蛙を外へ追いやったけれど、きっと初めから外側にいるものだし、元の場所にいた場所に戻っただけなんだ、と思う。戻ってこないものはいつまでたっても待ち続け、恋焦がれ続けるんだね。君はぼくがしんどくてすぐに辞めてしまった。

 待っといても現れはしない。大サーカスのテントも。ガソリンスタンドも。木村も。

 きっと忘れた頃にポッと吹き出して横切ってくれちゃうんだろうよ。ぼくもそうだったし、大体そういう頃には、いちど自分の中で解決しちゃってたりするんだ。消化できていたはずのものが目の前にまた現れてしまうときっと、待ち望んでいた辛い日々も、寝れなかったら明日の夜も、心のどこかで落としてきたみたいな泣き出した昼間も、その時間は何だったのってなるよね。無駄手間だったと思うかもしれないね。でも無駄にはしない。君が消化し続ける姿を、消化していた姿を、ぼくが克明に描いてあげる。大丈夫。ぼくだってそうやってきた……無駄ではなかったよ。ただもう少し早く来てほしかったなぁなんて思うことだってあるさ。これは全て自分のまいた種ではあるんだけれど。 

 

 アパートの2階のぼさぼさ女がタバコを吹かしている間に、この頃の夜は薄笑いを過ぎらせる。

 二月にもなれば、師走並みの速さで日々が過ぎていくきらいが例年あって、新学期がまた丘の向こうからせり上がってきそうで、明け方に、日が昇るのが先か、自分が布団から出るのが先か、いささか勝負したものだ。

 バレンタインデーなんて洒落たイベントに浮かれるために二月はあるくらいだったが、とうとう今年は誰とも会わないまま、下旬がなだれ込んでくる。師走よりも殺人的速度で二月を捕食し尽くしてくる輩がいる。いち早く春を欲するべく弱り始めた冬の息の根を止めようとする輩がいる。

 ぼくは義理でも叶うものはないから、何ならチロルチョコでもいいから欲しいなぁなんて甘いことを考えていたが、もらえるどころか誰かと会うこともできず、一日中街を走り回って、彼女と遭遇しないかと探し続けた。だが高気圧の早とちり、春が先端を挿しこんだ陽気で汗をかいた。ぼくの妄想の世界のように、サーカスのテントを伏木ナオは探してはいない。実に堅実な女子大生のまともな女子大生の春休みを過ごしているにちがいない。なんなら児童センターのアルバイトも辞めて、木村の追いかけもやめて、今頃どこが拾ってきたわからない狼系男子の首輪をはめて下呂や長野の山奥の秘境の温泉宿を開拓して自らの生活の充実を追求した旅館で、その男と大の字に寝ているかもしれない。

 木野川の河川敷で、ぼくは大の字になってでしゃばりの春陽気を浴びようとした。まだ時々冷たい風が吹いてくる。くしゃみをした。伏木ナオが噂してるかもしれないと実にモンキーな展開に花を咲かせ、なんて貧相な妄想だと、愕然とした。言葉を並べれば、並べるほど、不純でありきたりなものが、吐き連ねるばかりだ。インクがもったいない。伏木の本性は知れたのものではない。

 文明が衰退したのかもしれない、チョコ獲得0のまま帰宅すると、久方ぶりに外を走り回ったからか、日ごろ硬派な引きこもりをしていたからか、熱を出した。倹約とは乏しい、みだれた野心を問いただすべく、自らの邪心をデトックスする良い機会だと思い、三日三晩寝込んだ。それから5日間ほど反動で体が気怠く、何も手がつかなかった。特筆すべきこの週の出来事はなく、喫茶店での一件以降連絡もかなわない伏木ナオに再度チャレンジするのには、まだまだモチベーションが上がらず、とうとう三月の号令が高らかに耳をつんざく悪夢に悩まされ続けた。

 高校時代の詰襟の下に着るカッターシャツを代わりに着て、その頃のぼくはアルバイトを毎週土日に行っていた。はじめは学校帰りに行こうと思って通学路の中間地点の駅で勤めていたが、いつしか夜遅くに帰るのが嫌になって週4から週3、週2になっていった。土日だけになると1日6時間、通勤含めると朝の8時から夕方の6時まで時間が拘束される。結局、毎日に電車に乗るのだ。土日の朝方の電車は平日より空いている。曜日がなんだ、とスーツ姿の村上龍の唇を少し膨らませた会社員とかよく並んで特急列車を待つ朝を何度繰り返したか。

 長期休暇に入れば、ますます曜日の感覚が、これまで刷り込まれたものに過ぎないことを教えてくれる。だから、だからと言って。

 慢性的に同じ事柄が頭に入っては出ていく日々の中で、朝が来て、夜が来て、朝が来て、夜が来て、その中で伏木や木村の虚妄の世界が、いかに自分の承認欲求のそれになっていたか、恐ろしく感じる。もはや彼らがふざけ合って暮らしていた生活の光景を再現することができない。できないだろうか。できないも何も再現性も、何も実現していないことからなら、なおさらでも本当にそうだろうか。今ごろ、地面に叩きつけられ、へばりついていた木村の死体が山の中からひらけたところから見つからないだろうか。山中なんていったいどう、ちまちまひとつずつ点検していかないといけないんだろうか。空の向こうで降り続けていた、穴からまた冬の寒さがつき抜けてくるだろうか。いつになく厚木の中身が電車の中で汗ばむ。暖房が効きすぎているだとか、人が多いだとか、混み合っているわけでもない。もう冬が明けようとしているのだ。今朝の新聞に桜の開花予報が出ていた。けど桜が咲けば春が来るという訳ではない。けれど春が来るのはぼくを忙殺した、あれこれを凝縮された嫌悪感に満ちたギラギラ太陽の季節が後を追い始めてきているということだ。ぼくらの日常にひしめきと窮屈さを埋め尽くして来る日々だ。きっとその前に伏木ナオと木村の出会った、あの雨の日のような、うっとうしい梅雨がぼくをイガイガさせるんだ。それまでになんとしてもぼくは終わらせなければならない。終わりにしないといけない。

 

 不穏な吐息ばかりがこびりついてしまう。夕暮れに、かつて通っていた小学校の裏門にたどり着いた。沢ベンや吉井君が通っている設定になっているこの学校が、今どれぐらいの児童が在籍してちるのか知れない。今もあの頃も、裏門から続く緩やかな山道はこの時間になると薄暗くなるかと思っていたが、LEDの街灯がひとつふたつ付き出した。しかし丁字路にさしかかるとその案内もなくなり、砂利と雑草が茂った、かろうじて通行のために切り開かれたあの野道が始まる。両脇に枯れ草が萎えて倒れていた。いずれ朽ちきって土に還る。茎の太草木はいくらか湾曲して地に着いている。春の準備に背の低い雑草がじわじわ植生を始めようとしている。砂利道にいくつかの凹みがあるが、そこに水たまりができていなかった。すこし沈むくらいの柔らかさが時々風の心地をつたってくる。この不快感はいつまでも不快感として受け取りがちなのだか、いつかどうでもよくなるのだろうか。記憶と違って小川が流れていないと思ったが、その矢先に右脇にすり寄せてくる形で現れて、砂利道がいちど解けて赤く錆びた鉄の板を被せただけの簡単の橋が現れた。渡ると田んぼが上にあるのだろう、盛り土が砂利道を挟む形で土地が隆起してくる。

 

 さて、ここで記憶違いを確信することになるのだが、背の高い竹林やら、濃くせわしなく所狭しと生えた。雑木林のトンネルを見つけるはずだったが、どうもその切り開かれた跡さえ見当たらない。この危機の奥に斜面が、下り坂が始まるんだったか、上り坂が始まるんだったか、どうも怪しいが、それにしても林の茂りにやや欠けるものを感じた。どうも沢ベン、吉井君、伏木ナオが、ぼくが紙の上で探検させた森は経路通りに進むと、いや進もうにもたどり着けない。ぼくは『大ショッカー団』を退治しに行くにも、木村の死骸を見つけることもできない。一緒に探検に行ってくれる友もいない。

 

 町にサーカス団が来た形跡は無い。広告やビラや看板が貼られていたり、配られていたりしたこともなかった。道行く人にサーカス来てませんかと聞いてみてもきっとけげんな顔をされてしまうから、ぼくはひとりで探し始めた。大きな大きなテントを張ることができる面積がある場所は限られている。役場や書店、Googleマップ、図書館で調べてみると八木川のほう、それも下流の港のそばにある埋立地がありえそうだった。

 しかしどこも疲れてない空虚な雑草がまばらに広がっている空き地か、ソーラーパネルが所狭しと並べられているかで、天に向けて地面に強くに突き刺さった支柱に、何百人も包み隠してしまいそうな大きな布をかぶせた、偉大なるサーカスのテントは見つからなかった。

 

―もしもし

《応答なし》

―もしもし伏木……

《呼び出し中》

―ああ……

《呼び出し中》

 電話をかけてどうするのだろう。何を話すと言うのだろう。話してくれるのか。とてもそうは思えない。彼女はぼくの書いた虚構よりももっとそっけないぞ。

 

  •  アイツ

 裏切り者が来た。アイツって呼ばれてた白装飾のメガネの細身の男だ。たしか木村蛙のハローワークにいた男だ。ぼくが書いたんだ。たしかだ。彼はぼくの枕元でふっと現れて啓示を送りに来た。ちょうどぼくが履歴書の日付欄で間違えて来年を書いてしまって、それに気づかないまま企業に郵送してしまった、その夜だったとおもう。確かそうだと思う。木村蛙がしんぎゅらりてぃ☆さちこから啓示をうけたように、あるいはフィリップ・K・ディックの「ヴァリス」っていう小説みたいにピンク色の光線が頭を貫いたってわけじゃない。彼は至って平然とぼくの部屋に現れて、しかも全裸で、座禅を組んで鼻歌を歌っていた。よく聞けばビートルズの何かだったと思う。たぶん違う。きもちわるいし、なんならそもそも夜中に得体の知れない男が枕元で座禅を組んでいれば恐怖で何もできず布団の中で丸く硬直するものだが、親切なアイツはあっ大丈夫、幽霊とかではないっす、あと空き巣ではないっすっていってくれたら良かったけど、文字通り顔通りの仏教面で表をあげ! とぼくに向けて怒鳴るから、言葉にならない悲鳴を上げるかもしれないが、ぼくの喉がつっかえてプレスされた蛙さんみたいな声がドボドボ出た。

 啓示によれば、伏木ナオに会わせろ、ことが進み、幕引きまで案内できる、とかいう。何言ってるのって寝起きでも正確に発語できた。アイツって現状知ってて言ってるわけ? ぼく、もう伏木ナオと連絡取れないし、なんなら虚構である君が現実の伏木ナオに話しかけるとか出会うとか無理でしょ、というとアイツは、私は裏切り者の14番目だから、第四の壁どころか第一も第二も第三もないからなんて言いだすからいや第一も第二も第三もないってなにというと、君は所詮小説内小説の第四の壁を取っ払っただけでこの君の小説内小説を内包した君の事象の第四の壁は取っ払ってないし、なんなら小説内小説である木村蛙と伏木ナオのランデブーはすでに第一から第三の壁が崩れてしまった。つまりは世界を君は一つ破壊したんだ。だから出入り自由だ。どこからでも入れる。過去から、未来から、物語現在から。どこからでも割り込めるんだ。

「それって物語としてどうなんだ」

「まあ、体裁はないね。物語としての秩序がないようなものさ、いうなれば、君による君のための君の承認欲求の場でしかなくなる」

「そんなこと、初めからのようなものだろう」

「ならなんで木村蛙なんて数奇な人物を構成した?そして追放までした」

「それは……」

「伏木ナオの周辺にはあんな妖怪みたいな男は居ないはずだ。むしろ君のようななにを考えてるかわからない、得体の知れない雄なら鼻息を荒くして逆立ちしてはいるが」

「逆立ち?」

「逆立ちは逆立ちさ。それよりだな。君の作り上げてきた小説内小説の不可解さはそこにある。自己愛的な物語に消化されなかったということだ。なぜ自分とのランデブーにしなかった。君も木村蛙とは程遠い。相手やしない。あれは君がモデルなのか?木村蛙とは誰なんだ?」

「彼はぼくでもない。誰でもないんだ」

「誰でもない者を、好きな相手に鉢合わせるってどんな趣味なんだ」

「もうやめてくれないか?棒の中身を詮索するみたいじゃないか」

「君がどういうつもりでこの小説内小説を作り上げたのかは知らないけど、欠陥だらけだ。構成からやり直すべきだよ。通行可能なガバガバ小説になってしまってるよ」

「小説内小説ってなんだ。どういうことだ」

「それは君もまた誰かの小説の登場人物、かも知らないってことさ」

「なんだそれ。ラッセルの世界五分前仮説みたいな」

「まあ近いものだ。君が書いたという伏木ナオと木村蛙のランデブーを描いている君を書いている誰かがいるかも知らない。彼は当初君と自分を重ね合わせた体で描いていたが、だんだんとズレが起きてきたんじゃないかな」

「なんだそれ」

「まあフィクションである君からしたらそれは受け取り難い事実かもしれないね。でも君もまた木村蛙やら君の物語の伏木ナオにそれを仕向けたんだ」

「同罪ってことか」

「そうさ、今に君も裏切られるんだ。君をフィクションと彼らを断定したようにね」

「そんな……」

「でもね、この啓示のなかでいちばん伝えたかったことでもあるんだけどさ」

「うん」

「逆に現実って存在するのかい?」

 

・喫茶店

伏木ナオを呼び出すのに木村蛙の名前を出すのとあっさり話が進んでしまった。これはアイツのおかげである。

「ぼくも木村も大した違いはない」などと彼はいう。

 全然違うと思う。翌朝には話がついてしまい。その午後3時に丘の前の駅近の喫茶店に集合することにした。ぼくもアイツも暇な大学生だったし、伏木は明日から実家に戻るというからちょうど良かった。アイツはあの晩からずっとぼくにひっついてくる。伏木を待つ間、アイツはコーヒーを4杯のんだ。だがずっと眠そうに目を擦って3回くらいトイレに席を立ち、その都度週刊誌を手に取って戻ってきた。女性自身なんて君は読むのかときくと案外露骨なやらしい話がついているから社会勉強がてら読むのだとこたえた。目を光らせて青臭い子供は純真な心を持っている上で大人の見せられない部分を見て何かを感じ、何かを失うものなのだろうが、アイツにはそんなもの鼻からない。誌面を滑らす視線には軽蔑すら感じられた。

 伏木は1時間遅れて現れた。彼女が普段着ているライトカラーのパーカーに膝上あたりまで伸びた赤いベルトで彼女が特に着飾ってきたとは言い難いことが伝わった。半信半疑だとしても会いたかった人に会えるならちょっとはおしゃれをするのが下心というものかも知らないが、どうもそうでもないことが伝わった。

「きみが、伏木ナオさんだね」

 自己紹介もなく、アイツは五杯目のコーヒーを彼女の注文と一緒に頼み、じとりとした目で彼女を見た。アイツはぼくの服を借りて来てるからぼくの服を知ってる伏木が怪しい目で見返している。 

「彼から紹介してもらったんだ」アイツはそう続けた。

「あっそ」

「いまなにしてるの」

「大学生」

「何年生」

「三年」

「なに学部なの」

「文学部」

「文学部の?」

「仏文科」

「フランス文学のなにが好き?」

「マルグリッド・デュラス」

「なに書いてる人」

「小説」

「まだ生きてる?」

「死んでる」伏木は素っ気無くこたえた。

 彼女がトイレに席を立っている間、アイツは週刊誌をペラペラめくってお冷やでうがいをした。ぼくが辞めるようにいうと雑誌を閉じて天井を見つめてうがいを彼は続けた。

「君は口ベタなのか?」

「いや、ごろごろごろ、そうではない、んぺっ」

「頼むからうがいはやめてくれよ」

「わかった、ごらごら、いいだろう、やめよう」

「ちょっと残念だよ」

「なにがだね」

「あんな口下手ならぼくと変わらないよ」

「何をいう。どのあたりがそうなのだね」

「何かの調査か?尋問か?」

「きみも似たようなことを書いただろう。序盤のハローワークのシーンで」

「あれはだってそういうイメージで」

「イメージ!」

「なんだよ」

「イメージで書いてしまったのか、現場も知らず!」

「よくねえかよ。想像力だよ想像力」

「もし間違えてたらどうする」

「そんなの、フィクションだから」

「現実味を帯びさせる方法としてどうなんだ」

「昨夜と言ってること、矛盾してねえか」

「現実なんてどこにもないってことかい?」

「そうそう、それそれ」

「だが虚構を一つ作り上げてしまうと、その中で動く登場人物の「現実」は虚構の中でしかない」

「もうやめてくれ虚構だとか現実だとか、頭が痛くなる」

「君の所為だ」

 

終章 さあかす

 喫茶店を出るまえに、ぼくもトイレに行くのに席を外した。

 店の奥の戸を引くと大きな広間に出た。広間というよりかは、何か、大きな布地のかぶった、そう、テントのなかだった。中央に縁系の舞台があり、両脇に一対の大木のように力強く地面に突き刺さった支柱が布を張っていた。

 客席が円形の舞台から押しずしの要領で詰められている。ぼくが戸を閉めるとみしみしと音を立てて隣の物と潰れ合い、ひとつにまとめ上げられんばかりの観客は玩具を奪われた子どもの顔を彼らはした。老人や主婦、知識人の格好をしている彼らも、死刑囚や警官、武士、アイドル、ギリシャ人、忍者、音楽家、ターバン姿の者もいたが、だれもが子どもの顔をしていた。

「レディース、アァンド、ジェントルマン」

 野太い男の声がした。円形の舞台には全裸の婦人が青白い炎とともに空中から顔を出した。

「うちはIHだし全滅だったわ。朝、コンビニのイートインだったのよ」

 婦人は高らかに唱えた。ひしめき合う子どもの顔をした観客たちがきゃあきゃあ拍手をした。みれば顔がすべてチンパンジーになっていた。

「ごらん! 正常よ!」

 婦人はキィーキィー天井を指さした。チンパンジーの顔もつられて一斉に見上げる。ぼくも見上げると、支柱が電線を繋いだ丘の向こうから繋がってくる、高い高い鉄塔に様変わりしている。高圧電流の走る何本の電線に、ハローワークの浮浪者たちが綱渡りを始めた。テントのてっぺんは空の遠く遠くにみえた。まるで空を張っているような鉄塔は彼らが一歩一歩進むたび、軋んだ。一本、二本がぶち切れた。婦人のそばで花を乱雑に咲かせて、二人の浮浪者がおちてきた。チンパンジーの顔の観客たちがケタケタ拍手をした。そのまま、何人も浮浪者が、天井から降ってきては、電線につかまり、それを歩いてきた。感電してこんがり黒焦げになって落ちるか、バランスを崩して落ちるか。

「これが、正常よ!」

 婦人が繰り返した。彼女のそばを、薄汚れた男たちが内臓をもろともぶちまけていく。婦人も、円形の舞台も、真っ赤に、真っ赤に、真っ赤に染まった。婦人が赤に染まって、もはやどこにいるのか分からない程に死骸にまみれたとき、次に火の輪が支柱からつられてきた。

 天井から、落ち葉が今度は降ってきた。濁流のように、いくつもの森に降り積もっていた落ち葉のすべてが客席を、舞台を覆いつくした。誰もが落ち葉におぼれた。ぼくも暴れた。

「ひゃっ!」

天井の方から、伏木ナオのこえがした。

「先生蛇?」

「ううん、何か、もっと滑っとしてた」

「蛙?」

「ううん、もっともっと長い」

「じゃあやっぱ蛇じゃない?」

 

テントの中が、かき混ぜられ始めた。すっかり、落ち葉と、死骸と、チンパンジーの観客たちがかき混ぜられている。彼女が触れたのは、浮浪者のはみ出した、臓器の端くれだろう。

 上か下か、右か左か、過去か未來か、なにがなんだかもううまくつかめない。寒いし、暑苦しいし、眠たいし、眠たくない。お腹が空いたし、もうお腹いっぱいだ。わからないのに、よくわかる。きらいだし、すごく好きだ。したしけど、したくない。生きていたいけど、死にたい。個々はどこだ、テントの中の支柱につかまると、それは粉々に砕けて、かきまぜられてしまった。

 周縁が、

 

 金の卵に、ひびがはいった。中からしんぎゅらりてぃ☆さちこが顔を出した。ぼくは濁流のなかに揉まれながら、熱々の鉄板に彼女が流し込まれるのを見た。次はぼくたちだった。

 

(了)

公開できる範囲の日記(2020 9.1〜9.8)

9.1

夜中を通してうまく眠れず。朝起きて昨日の夕食になるはずだったおかずを探すが見当たらず、米とあさげのインスタントを摂る。「響きと怒り」を読み終える。昼食を食べたあと、父方の祖父が父親に預けたものを取りにうちに来る。祖父の話では父親が私にこの件を伝えていると言っていたが私に身に覚えはないし、父親もそんなこと言ってないから適当なことをでっち上げられたと言う。長生きしないでおきたいと改めて感じる。

9.2

朝から東浩紀「一般意志2.0」をよむ。卒論に合うかあやしい。昼過ぎに読み終える。冷やしかけ蕎麦を作ったがよさがよくわからなかった。よるはずっとサークルのオンラインで、小説人狼ならゲームをやる。もちろんすぐに私の作品はバレた。クソ。

9.3

妹の送迎をしたまま地元図書館に朝イチで行き、使えそうな本を探す。四冊借りたが結果的には濱野智史アーキテクチャの生態系」(ちくま文庫)しか使えそうにない。前から気になっていた吉村萬壱先生の「流卵」とアメリカの

実験小説とかいう「ウィトゲンシュタインの愛人も借りる。読む暇があるのかわからない。今度の中間報告で標準になる鴻池留衣「ナイス・エイジ」を再読。前述の本から2ちゃんねるの生態系と本作を比較する。

9.4

昨日借りた本で使えそうな部分をさらに洗い出す。パソコンを開きそれを組み合わせながら論を建立する。いままで紙に書き出していきながら配線をつなげていったがもしかしたらこっちの方が向いているのかもしれない。「流卵」と「ウィトゲンシュタインの愛人」が読みたいが手が回らない。

9.5

9時から17時までアルバイト。3ヶ月ぶりに行きつけの古本屋さんに帰りに向かい、「西脇順三郎 詩と詩論」揃いで見つけてしまう。ご好意で大負けしてもらい5000円で買う。3ヶ月前に行った時(インスタの記事参照https://www.instagram.com/p/CCiXnbFA5sO/?igshid=1blk0wqnf30pl いちまいめの写真がその時購入した本)寺山修司の討論会に参加したと言う常連さんに読者の趣味をかわれて、大山定一訳のゲーテファウスト」をいただいたことがあったが、この方にゲーテ詩集もいただける話になっていたことに店主と思い出し、そちらを受け取り帰宅する。非常に立派な詩集である。家に帰ると大学図書館に頼んでいた本が届く。

9.6

9時から17時までアルバイト。クレーマーが現れた。クソ。低気圧にやられる。昨日届いた本を洗い出し、卒論に使えそうな部分を探す。コレが正しいのか。わからない。西脇の本を回収に行く。

9.7

朝から引き続きレジュメを組み立てる。台風が近づいていて、雨に当たるか怪しい曇り空の中急いで最寄駅に向かうと目前のところでバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨に当たってしまう。クソ。17時からアルバイト。帰宅して少し手直しをしたレジュメがもう次期完成する。この日、萩原朔太郎詩集を読み終える。「薄暮の部屋」や「恐ろしく憂鬱なる」「天井縊死」「雲雀料理」「恋を恋する人」「干からびた犯罪」がこのみだった。

 馬鹿づらをして、

 手がでる、

 足がでる、

 くびがでしゃばる。

萩原朔太郎「死」より)

9.8

一日をのんびり過ごす。「流卵」「ウィトゲンシュタインの愛人」を読み終える。どちらも好きになれなかった。急いで本を返しに行って坂口恭平「現実宿り」「けものになること」D・ファースター・ウォレス「ウィトゲンシュタインの箒」中原昌也「パークタイム・デスライフ」を借りる。「パークタイム・デスライフ」を先に読む。

公開できる範囲の日記(2020 8.22〜8/31)

8/22

集中講義の最終課題の規模不明のためにあらかじめバイトを休みにしていたが、前日のうちに済んでしまっていたのでただの休みになってしまった。坂口安吾「木枯の酒倉から」を読む。酔っ払いの独白のパートが一読してあまりにつかみかねる。全集一作目でこの手強い作品である。先が思いやられる。中上健次「奇蹟」読了。

 

8/23

アルバイト。引き戸の件おとがめなし。昼休憩でパステルとスケッチブックを買いに行く。画材屋が潰れてたり、目当てのパステルがなかったり(どれも桜クレパスだった)二軒もまわるハメになる。建築知識9月号とジャック・ラカン岩波文庫を買う。道中でジャン・ジュネ泥棒日記」を読み終える。セリーヌサルトルの「嘔吐」に近いのかと思ったが、よくわからなかった。どうしようもない。家に帰り夕飯にモヒートを飲み頭痛を引き起こす。今週、谷崎賞発表でイソケンがTwitterの界隈で話題になる。好きな作家だが近著は読めていない。パステル描いてみる。

 

8/24

頭痛がひどい。読みかけの本に手を出しながら頭痛い。昼にカルボナーラをふざけて作る。17時からアルバイト。フォークナー「響きと怒り」を持っていく。ベンジーの語りの脈絡のなさはこちらの思考の類型を省みる必要性を与えてくれる。バイト上がりに一個下の学生とラインを交換する。金を下ろす。

 

8/25

朝から掃除をする。昨夜の頭痛から寝る前にロキソニンを探したが見当たらない。切らしていた。わりかし具合は良くなったが積読本の並び方を変え、アクションペインティングの用意をする。10時ごろ百均に行き画用紙とパステルを買う。レギュラー2000円投入。13時半にアクションペインティングを一緒にしてくれる人を迎えに最寄駅へ再度車を出す。なかなか面白いものができた。夜妹にロキソニンと、母親が職場に忘れ物をしたために再度車を出す。何度車を出すんだ。

 

8/26

9時40分に起床。6時過ぎに犬の鳴き声で目が覚めた気がするがきっと気のせいだ。坂口安吾「風博士」「黒谷村」をよむ。「失われた時を求めて」をよむ。中原昌也作業日誌の5月分をよむ(2004年の)。幻のアフリカの今日の分まで読んで自分の日記がほったらかしにしていたのに気づく。まえの日曜の分からまとめて書く。昼から少し不貞寝。スワンの恋を読み終える。吉増剛造の詩的自伝を読み終える。風呂の前後で野家啓一「物語の哲学」の第一章あたりをノートに取る。

8/27

8時起床。昨夜に引き続き「物語の哲学」をよむ。社会学が私のやる卒論に有効と見て方面を変える。一回生の頃に受けた社会学概論のレジュメを探しに書類の山を整理する。腰を痛める。軟弱さを覚える。高3から昨年までの直筆の草稿をたくさん見つけ、アツカッタころを思い返す。なぜこうも書けないようになった。書いても仕方ないと思ってるのか。アルトー「演劇と分身」を読み終える。

 

8/28

沢山雨が降る。ずっと読書「春昼、春昼後刻」泉鏡花ニーチェ道徳の系譜」をよみおえる。最近の読書は質が悪い。たちも悪い。「失われた時を求めて」第一編第三部も読み終える。第一部に戻る。この日安倍晋三が総理大臣辞任を発表する。評価は分かれているがそれ以前にこの無責任大国の族長をよくもやり続けたと思う。お疲れ様でした、としか言いようがない。めんどくさい世の中だ。クソ。

 

8/29

9時から17時アルバイト。二日分の半袖シャツのアイロンをかける。「響きと怒り」を読んで出勤。定時社員のお休みによって17時から19時に勤務がこの日だけ伸びた。久々にしんどい。帰ると大学からの郵送貸出が届いていた。「集合知とは何か」「一般意志2.0」「新=批評的エッセー」

 

8/30

9時から17時アルバイト。昨日の延長のお礼を店長に言われる。自尊心が満たされる。「響きと怒り」第二章よみおえる。昼にドストエフスキー「賭博者」と大江「大江健三郎作家自身を語る」を買う。帰りのブックオフでダンテの「新曲」(河出文庫)を揃いで見つけて買ってしまう。夕飯はマグロ丼。ビールを飲み無事腹を下した。クソ。

 

8/31

17時からバイト。終業後一個下のアルバイト2名とラーメンを食べて帰る。この日も忙しかった。階戸瑠李という以前インスタをフォローしていたモデルそして女優の訃報がこの日流れた。半沢直樹に出ていたとだけ紹介されていてどこか虚しさを覚えた。人はいつ死んでもおかしくない。