おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

対象の輪郭

このごろブログがご無沙汰なのだが4月に入ってから一日一個載せたらツヨくない?なんて浅はかなことを考えていた私は馬鹿で、社会人ってドチャクソ慌ただしい生物だって知らんかったわ、まだまだ先っちょだけ入れたくらいのヒヨッコが何を言うとるんや社会なめとんかいななんてドヤされてニコニコ過ごしているのだが、ところで書き出しの一文まだ末尾来らんのこりゃ悪い癖でありまして、だから一向に人に読まれる文章が書けない訳なんだが、書けない書けないという先から文字を並べていますが、とまあこのように適当に文章を繋げては語尾をバカスカバラバラにしてみて悪文でお気持ち表明をしていても仕方ないが毎日必要に駆られて文章を書き起こすなどを研修で行なっている。丸一日座学とかで受けた内容にたいしての感想とか気づきとかを600字くらいかな?原稿用紙1.5枚もないのかな、そのくらい書かされている。そういうわけで2週間くらいで朝と帰り二つでそれを2枚、つまりはだいたい1200字、いまパッと受けてきた日数を数えて原稿用紙51枚分に相当する分量を書き殴っていたことになる。うわ、短編書けたやん。まあ分量の話だけで言えばそんだけなんだけど、時間制限があり、せいぜい1回20分もないんだったか?何を書くか考えてそれを文章を書いていたらかなりキツイだろうね〜、社会人ってそういう力が求められているのかわからないが大学時代は原稿用紙大好き人間(ハート)でマス目を見るだけで鼻血を噴き出して目をとろんとろんにしていた異常性癖の私でも20分で上記のような順序であくびをするように当たり前に600字毎日書けるのか疑問だ。内容はどうも研修の運営側に読まれているらしいが、制限時間内に決められた分量まで埋めれば良いらしく、私は構成そっちのけで議題を読んだ上で浮かぶ想念を書きながるというスタイルを取っている。まえにブログにリンクを載せたことがあるけど「シュルレアリスム宣言」で有名なアンドレ・ブルトンが発明した「自動記述」に近い。これは正確には思考が関与してくる前に手を動かし、深層心理を浮き彫りにしていくという、たしかフロイト精神分析の影響が強い手法だったと記憶している。宗教の次に精神分析フロイトの理論は毛嫌いしてる私だが、シュルレアリスムという界隈を産んだ要因として頭は上がらない。とはいえ深層心理を深く乗り込んでみれば気が狂ってしまうらしい。私は大学の頃からもうすでにどうかしていたし、体裁を崩すことばかり考えているどうしようもない人間だから、書いているうちに書きたいものが繋がっていくという、即席芝居みたいなマネをしているわけ。自分の性格や遠い記憶をひきづりだして書き出しに投げつけてそこから植物が根を張るようにどうにか毎度課せられるお題のようなものに繋げていく。二週間も同じ手法をしていると飽きてきた。文体がクセになってしまって同じような書き出ししかできなくなるという経験は散々してきた。高橋源一郎だったが二日書くのをやめると文体はリセットされちゃうとかどこかで言ってた気がするけど私は土日挟もうが無駄らしい。書き殴るという即席作業は、体裁を整えたり筋道をそのぐちゃぐちゃのなかに見出せばちっとはまともになるかもしれねえなあみたいなものが書けた時もある。時々時間を余らせてマス目を埋めてしまうと、このままこの文体が体に残ってしまうのではないかと不安になる。ちょっと手法を変えてみたくなる。全文カタカナ表記にしてみるとか、横書きを縦書きにしてみるとか、読点で繋いで長い長い一文にしてしまうとか、あるいは倒置法を連発してみたり……

大学時代に書き散らした小説もしっかりいちから書き直すなんてことをしたのはふたつみっつくらいだったと思うけど、書き直しはキリがない。丸山健二保坂和志も言ってた。清水良典も言ってた。完璧がない、というよりかは誰にもそれがわからないし、完璧な尺度がないのがテクストを編む面白さであって、どこまでその頂にちかづけるかが面白いのだろうけど、推敲がほぼ許されない時間という壁に推敲地獄へ落ちないように守ってもらっていると私は少々感謝しつつ、いつか何かどうにかしてうまくここで考えたことを、その残滓だけでも良いから活用して小説なり随想なりに落とし込めたらなと考えている。この精緻さとは程遠い粗い作業は、彫刻にたとえれば、丸太のうちに描きたい対象の輪郭を見出すのに近いかもしれない。これまでは漠然と書きたいものを書きたいように書いていたけどどこかでそれが煮詰まってしまった。丸太から輪郭を見出す、素材準備に勤しんだ方がいいかもしれない。

 

以下参考文献