おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

骨糸(こついと) [創作]


 朝を寝過ごして、午前中をゆるやかに布団から出たのか出てないのかと可能性の縁に体を縛りつけ続け、十一時ごろようやく顔を洗い、コーヒーを沸かしてふと意識を鮮明にさせるともう正午を過ぎていて、出かけることが億劫になってしまったニライはベランダに植生している正体不明の観葉植物の蔓のひろがりを窓越しに見つめた。
 すっかりベランダの床面は緑色の細い管に芝生じみた青々さでいっぱいになっている。隣や上下の部屋にまで蔓が伸びているのか気が気でなないが、不思議なことにニライの借りたこの部屋の分しかひろがりを見せない。
 冬になれば茶色にあたり一面枯れ草になると見ていたが彼の部屋を訪ねた国枝マミの予想通り、次の春もこのままの調子で来てしまいそうだ。
 ニライがこの部屋を越す前に一緒に暮らしていた女が帰ってこなくなって、それから見たことない男が彼女の荷物をあらかた留守中にかっぱらって行った。ニライは見ていなかったが大家がラグビー選手みたいな男が二、三人来たと言っていた。もちろんニライの使っていたIHコンロもパイプベッドも小さな冷蔵庫も拝借していった。彼女のドレッサーもナイトテーブルもなくなっていた。ニライの読みかけの本が辺りに散らばっていた。
 引越しを目前にした晩に、ニライが眠ろうとしたところで姉が郊外からの最終列車で冷やかしにやってきてニライの住む街を夜道でつないで迎えに行くはめになった。姉は地元のスーパーの袋をぶくぶくに膨らませたものをふたつ連れてきてそのどちらもニライに持たせた。
「もういっぱいいっぱいなんしょ」
「なにが」
「なにがって、あんた。いっぱいっしょ」
「ようわからん」
「ハズレひいただけやっちゃ」
「こっちがハズレだったんだよ」
「どっちもハズレとったやろ」
「なにがわかる」
「だって、そうっしょ、どこで繋がってんかわからんふたりしとって」
「まあな」
 姉がスーパーで買ってきたものは、どれもつまみのそれで荷造りを済ました空っぽになろうとしている部屋に人に振る舞うものは作れないから悔しくも都合が良かった。
「またおとんと喧嘩した」
「はぁん」
「わたし、あんたとちがって独りで生きてけんね、そう言ってやったん、したらだったら出てけって」
「それは実家暮らしがいう言葉じゃないわ」
「それな。いまつっちーん家に転がり込んど」
「つっちーって土田氏?バリバリ地元やん」
 土田氏はニライの同期で高3のころクラスメイトで窓際の席で、詰襟の制服の袖や襟縁からイヤフォンを通して音楽を聴く勇気があるのかないのかわからない奴だった。窓際の先に町並みが見えるわけじゃなくって中庭があるだけだった。町並みが見えていても特に綺麗でもなかった。
「きっと妬いとんね、ぬはは」
 姉はそうけたけたと足を揺すって笑った。姉は途中でやり投げている残りわずかな荷造りの山から本棚の肥やしになっていた文庫本の束を手に取って、酒を口に含みながらつまみを触れた手でページをめくった。汚れるやろと注意するとこれ読んだん? ときいてきた。
「なにとったん」
「ふぃ、ふぃねがんず、なんこれ、あー、フィネガンズ・ウェイク
河出文庫の三冊分冊、ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク」。
「なわけない」
 右手に3本目のビール缶を取り出し、左手で第二巻を開き、トレンチコートやカーデガンの温床と化したソファに姉は身を投げた。こぼすなよとまた注意した。
「朗読したげよか」
「やめとき、できたもんじゃない」
 ビール缶を高く挙げて姉の細い喉が規則的に運動する。読めたもんじゃない。
「あんたさ」ソファに上体をまかせ、ずり落ち掛けのそれぞれ手にしたものをあらぬ方は放り、脚も宙にぶらつかせ、力なくこぼれたように姉は口に出す。あんたさ、いつまでも勘違いつづけんねんやん。
 あの部屋を出て次の部屋に移り、荷ほどきを途中にしてニライは簡単な旅行にでも出かけようかなと呑気なことを考えていたが、すぐ億劫になってしまって、うだうだしていると例のウイルスが始まってしまった。新しい部屋は前回の部屋よりも簡素な作りで、二階建てのアパートの一階の家賃の安い、最寄駅が二つ遠くに移った。自転車置き場が有料じゃない良心的な駅だが、歩いて5分くらいだから使う機会がなくなりそうだ。実家に自転車を返しに行ってもいい。
「混乱すると思うけど今は」姉の声は前に訪ねてきた晩よりも芯のとおった聞き取りやすいものだった。ちょっとしたら慣れんだわ、電話を切ったあとあたらしい部屋になんも残響がつかない。音もしみ渡らない。
 仕事帰りに駅のホームで他人の空似を見かけた。とりまきのひとりがよく見覚えのある、いわゆる特徴的な顔立ちでニライにはピンときた。彼とその人とのつながりはないから相手がどう感じられるのか知れない。他人の空似と目が合うかもしれないが、あっちは意識的に目を逸らすにちがいない。

 スーパーの従業員は目を細めて、床に散らばった小銭をひとつひとつ手を伸ばすおっちょこちょい客をぼんやりとした目で見つめている。きっと彼も、小銭をぶちまけた男にもいえるが疲れている。大丈夫ですか。従業員の声は必死に小銭を拾う彼には届いていない。
 暗がりの奥でムシャムシャと小銭のカビをしゃぶる音がする。音がするだけで見えるわけではない。開けっ放しの肉のコーナーの加工室へ通じるドアのむこうの真っ暗な廊下から聞こえてくる。
 国枝マミにスーパーに入ってるとラインを入れ、ニライは加工肉コーナーで試食のウィンナーを焼いているのを見つけ、ひとつもらった。考えなしにはじめに加工肉のコーナーに行くのは不自然だろうか、そうではない。
 店内を駆けめぐるのは流行の女性アーティストであれば男性ユニットのアイドルグループでもある。どれもメロディを取り込んだ加工がされ、彼らの声は聞こえない。
「すいません、この曲はなんですか」
 ニライの質問に従業員の手は止まった。わかりやすいくらいの困った顔を彼女はした。ウィンナーが転がりたいとぷすぷす言い始めている。えーっと、なんでしたっけ、とようやく口を開く。すでになんだがどうでもよくなる。このウィンナーおいしいです。ニライはそう答える。
 ウィンナーの袋をひとつ手にしたまま籠を探すと曲調が変わってサランラップや排水溝用のネット、ビニル袋のコーナーに迷い込んだ。喉が締まる気がする。喉が締まる。しめる。しめ。しめられる。しめ縄。正月のしめ縄、今年の正月、部屋を移ってすぐに買った。アパートの玄関に取り付けてみた。吸盤のついたS字フックを使った。三日でコンクリの廊下に落ちていた。北風が吹くと柄を抜かれたホウキに見えた。玄関扉は金属製だから今度はマグネット付きのS字フックを台所から持ち出して取り付けた。四日目にフックだけが扉から突き出ていた。

 学生の頃よく使っていた金山駅の北口に出るとすぐ右手に、理科の教科書で昔習った、川の流れによる岸辺の削れ方が内側と外側でちがうように、ほぼL字の急カーブを含んだ歩道が横断した先に待ち構えていて、その足元からツリーを模した外壁を駅の方に向けた6階建てのビルがある。横断歩道を待つ人間のいくつかにそれが木をかたどったものだと気付くものはいるのか、それほどに道ゆく人は忙しなく、何もかもを見て、何もかもをみていないようだった。そのビルから向かって右側のバス停がいくつかある歩道を進むと先のビルの隣に、デニーズが二階に入ったビルがあって、よくここでニライの同級生はここに入り浸ったらしいけど彼とイウラはチェーン店を嫌って(もちろん大津通りを挟んだ向かいのマックにもあの頃は入らなかった)いたから入ったことはなかった。
 大津通りの歩道でまたも信号待ちをしていると通りに面した例のマクドナルドの二階にあるカウンター席にイウラがいた。マックの隣のファミリーマートから出てきた女と目があった気がしたが、きっと気のせいだ。金山駅からの道とJRの中央本線に沿って緩やかなカーブを描く道が、大津通りにぶつかる、丁字路の、一つを上下反転させて上辺の横線をややずらして重ね合わせた重ねた歪な交差点は一本横断歩道を欠いている。金山駅からのミスドの隣の交番を横目に、喫煙者の集まり、パチンコ屋と来て、そのまま大津通りを渡ることはできない。一度デニーズの前に渡って、それからマクドナルドとファミリーマートのある方へ渡らないといけない。だからニライにはツリーのモニュメントの前のL字の道を渡るクセがみっちりついていた。
 イウラの苛立っている様子は信号待ちをするニライにもはっきりとみて取れた。彼の足元で病的なほどに揺すられる足は全面禁煙であろうマクドナルドのカウンターでは処理し切れないだろう。
 信号が変わってすぐにニライは店へ駆け込み、どこに二階へ上がる階段があるのか探した。横断歩道の黒だけを踏む習慣は彼の意識の外にある。目があった気がした女はニライの前を歩く中年に道を譲るように進路をやや右斜前方に移したことでニライの正面に現れたがニライは二、三度彼女の服装を見たのちにマクドナルドに視線を移していた。昔付き合っていた女に空似していたのか、だいたいよくある格好をしていたから無理もない。胃が締め付けられるようなむかつきを覚えた。二階に上がる階段が見当たらず、つきあたりの注文カウンターにいる外国人店員にきくとそれはホテルのフロント前のことじゃないかと答える上司を呼び、彼の言葉を復唱した。ニライはありがとうといい、ホテルの入り口を探した。ニライはもちろん金山が初めてではないが、今まで二階がホテルの敷地だとは知りもしなかった。
 航空写真を見てもらうとわかるが、JR中央本線の橋までのこの大津通りには北にはクリスタル広場が地下にある栄駅の交差点があるし、メルサがあり、三越があり、ラシックがあり、パルコがあり、矢場とん矢場町本店があり、大須の赤門があり、三松堂書店があり、名古屋テレビ放送いわゆる「メーテレ」があり、日本特殊陶芸市民会館があり、カニ本家があり、松屋が一階に入ったビルがあり、ニライやイウラが先輩に奢ってもらった定楽屋の入ったビルがあり、アニメイト、金山プリンスホテルマクドナルド、ファミリーマートカラオケボックス、ローソン、ブラジルコーヒーとある。JR中央本線の橋を渡り、東海道本線名鉄本線の上の橋を渡ると居酒屋が軒を連ねているが、さらに南下すると熱田神宮があり、アイシーメイツがあり、伝馬駅の真上を過ぎたあたりから県道225号線になり、新堀川を渡り、山崎川を渡るあたりから頭上に名古屋高速4号東海線が走り、やがて名古屋半田線となり、西知多産業道路につながっている。

 松屋のビルと定楽屋の入ったビルの間が航空写真では更地になっているが、ここに今は見上げるほど高いパチンコ屋があって、イウラの知り合いの合田という男がいりびたっている。合田はイウラが大学時代に出入りしていた「キューバ音楽研究会」の会計の役をしていた。金山や栄の繁華街でキャッチャーのバイトをしていたが、半グレかチンピラに絡まれて路上で刺されて中退した。「キューバ音楽研究会」と言っても誰ひとりキューバに行ったことはないし、聞いたことがないと答える部員がほとんどだった。近年の邦楽におけるブラックミュージックの影響について延々と研究する者や、シティ・ポップを軽蔑する曲で挑発し続けて名古屋駅前の路上演奏で職質される者、亀島のピンクザウルスで買ったローターをギター弦に当てつけてタッピング奏法する者、ベースひとり、ドラムふたりのスリーピースバンド(彼らはスリーピースバンドと言い張った)組む者たち、プログレやサイケ風の曲をひとりで作り続ける一匹狼、口を楽器にする者、楽器を持たないで感想を言うだけのもの、そして何もしない者がいた。
 イウラと知り合ったのはこの何もしない部類の合田と、合田のTwitter界隈にあるサイケデリック、テクノジャンキーのヤムオの紹介で参加した「キューバ音楽研究会」が月一で開く音楽ディスコの会合の場でニライがYouTubeピンクフロイドの「夜明けの口笛吹き」を聞いたことがあるとつぶやいてしまったことがきっかけだった。金山ブラジルコーヒーでほぼ毎週日曜夜にあるライブの常連だったイウラを連れて合田がピンクフロイドで「狂気」や「原子心母」じゃなくって「夜明けの口笛吹き」をあげるって同じ匂いがするなとニライをもてはやした。終始イウラはワンコインドリンクで頼んだモスコミュールを手にしたままその長い前髪の下から細い目でにらんでいた。音楽や文学、映画を動物的に貪るどれも中途半端なニライが、マシンガンのように吹き出す合田とヤムオのピンクフロイド論争にビビっているのを、イウラは気づいているらしかった。会場は背の高い肘をついて話し合うくらいの小さな丸テーブルがまばらにあるだけで取り付く島のない連中は流れてくるEDMに思い思いに体を揺すってヌルヌルうごめいていた。熱気というよりかは気怠げさが会場の空気を覆っているようにニライは感じた。それは単にアルコールが要因であることは察しのつくものだがまだ一口も手にしていないプラスチック製のコップの中の炭酸が気化するようにアルコールが空気中に気体となって放出されているんじゃないかと感じた。もしかしたらクスリでも散布されているかもしれない。ニライにはもうどうでもいいことだった。
 合田がDJに指を鳴らすと米津玄師の「パプリカ」と君が代、それからグリーンデイの「アメリカリディオット」の再編集remixが流れ始めた。「ハレルヤ、花が咲いたら」の一節が反復して「アメリカリディオット」のドラムをつなげて君が代ハウリングして迫ってくる。ニライにはそのセンスがよくわからなかった。会場の地毛からかけ離れた色鉛筆のパッケージみたいな鮮やかな髪の毛をした露出の激しい連中は、どこから出しているのかわからない猿のような声を上げて、伸びたり縮んだりして踊り続けていた。イウラは表情筋が死んでいるのか、顔色も変えずにモスコミュールをあおってニライを見つめていた。米津玄師のようにすらっとしたイウラは小顔を膨らませて酔うこともない。酒が強いのかときくといや酔うほど飲まない。女が欲しくなるから。そう小さな声で答えた。そこまで彼がニライに近づいて耳打ちするように答えたのだ。彼は離れ小島の丸テーブルに、踊り狂う連中を縫うように抜けて向かい、その上であぐらをかき始めた。背はピンと伸ばしチベットの修行僧の如く静止する彼がニライには神々しくうつった。黄色い薔薇柄のポロシャツに丸メガネ、細身、幅の広いジーンズにクシャクシャの無修正の髪のイウラ。キモオタのコスプレを悪ふざけでしてるニライとは大違いだった。
 おれはぁあ、と合田がニライをひっつかんで説教を垂れた。おれは刺されてから死にかけてから、音楽に身をやつすことにしたんだ。「あそび、まわり」の一節が反復するDJの手さばきが彼の言葉をかき消した。イウラにその時のことを話すと今やつはパチ屋に身を入れている、と短く喋りだした。
 彼は素直だが特に誰もが背けることに短く言い放つクセがある。

 暗がりでしゃぶる音がするのは、そうではなくともきっと咀嚼音に近いものか。だいいちスーパーはどこもかしくも逃れようのない照明が頭上からついていて暗闇は見当たらない。国枝マミが見当たらない。早々にお惣菜コーナーにいるか、缶ビール類の棚にあるかもしれない。
暗がりのしゃぶる音がだんだんと「夜明けの口笛吹き」5番目の「Pow R. Toc H」の「ぶん、ちちっ! ぶん、ちちっ!」の後に続く、「トイトイ! トイトイ! トイトイ!」が脳内再生されて頭が痛くなった。この曲に歌詞はない。「トイトイ!」
 明日が国枝マミの夜勤だっただろうか、明後日だろうか、昨日だったか。ウィンナーひと袋とビール缶の6個まとまったものを持ってレジの方へ行くと横に7つか8つずらりと並んだレジに4人ほど従業員が入っていてせっせとバーコードを読み取り、金額を打ち出していた。国枝マミはスーパーのレジ打ちを学生のうちにしていたと言っていたがその頃ニライは何のアルバイトをしていたかもううまく思い出せなかった。いちばん端のレジの列がなかなか動いていない。みるとさっきの小銭をぶちまけた客がまだ居座っている。
 ガムを切らしていたと並びながら選ぼうかと考えてレジ前の棚を順々に見て行ったがどうしてか見当たらなかった。ニライが列を縫うように進むと並んでいた主婦が怪訝な目で彼を見た。代わりに蝋燭とチャッカマンと線香があって、ライターは持っているから蝋燭だけ買った。

 炎が揺れた、赤いしたのほうで、ロウが丸みを帯びて溶けている。
「どうして蝋燭なんか……」
 一通りの食事を終えて一本食卓に立った蝋燭を見た国枝マミはいう。アスパラガスのようだった。ニライはわざわざ居間の明かりも落とした。誕生にケーキでも出てくるんだねと冗談を呟いた。ニライにはそう聞こえず、な何かを断定しないと気が済まない彼女に少しうんざりした。強迫観念ような、何かを仕向けられている気がしてならなかった。早くこの女に顔を埋めて記号になりたくなった。
 机の上にぬうっと国枝マミの顔が浮かんだ。LEDとは比べ物にならない小さな明るさが彼女の内情を解き明かして晒しているように見えた。彼女は疲れているようだ。ニライは聞いてみた。
「寝れてる?」
「ううん、うん、いやそんなに」
「どっち」
「わかんない、寝ちゃう時は寝ちゃう、寝ちゃえない時は寝ちゃえない」
トートロジー?」
「いやなのよ、中途半端は」
 ニライは席に戻った。彼女と囲うように見つめる蝋燭が暗闇と明るさの同一平面状のグラフにおける中途半端なところにあるのではとニライは不安になった。彼女が掌でおぼろげな火をもみ消してしまうかもしれない。
 彼女がきいた。麦茶を啜ってから。
「ねえ、月の子知ってる?」
「え?」
 ニライは聞き返した。
「あ、今村夏子の?」
 彼はきいて、それは星の子だと頭の中で修正した。ニライと国枝が初めて入った町の小さな本屋に平積みされていた、当時彼女の最新作だった。ニライは本屋大賞にノミネートされるものは読まないと言ってそれに目をつめることはしなかった。もちろんまだ読んでいない。お次は映画化ときたらしい。冷蔵庫のお茶を注ぎながら 次の去来がおきた。
「あ、大江健三郎の?」
 ニライは本棚に急行した。ついだお茶は途中で飲み干して勘でどこかに置いた。蝋燭の光よりも記憶というか、本棚に対しての感覚を頼りに文庫本を取り出した。さらりとしたカバーに古本屋で買ったどこか砂っぽい、経年変化を待ち得た講談社文芸文庫の感触だとわかり蝋燭の明かりを当ててみると「月の男、ムーン・マン」だった。
「冷蔵庫、閉めてよ」
 国枝マミの顔が青白く映えた。冷蔵庫の中の白い蛍光灯だ。パ、タン、と閉じられた。
 路地裏に何かを落としてきた気がするように、不意に玄関を確認に行った。
「どうしたの」
 リビングから声がした。
「鍵閉めたかなって」
 ニライは答えた。
 えぇー大丈夫なの、と国枝マミがあきれ飛んでくる。しっかりしていないと気が済まないという国枝マミはニライを叱るだろう。ニライはチェーンまでしっかり閉じられているのを確認すると玄関の明かりを消そうとする国枝マミと廊下の端と端で目が合った。
「これ君の靴?」
「え、そうだけど」
 スニーカーだった。3本の白いラインが黒い合成繊維の側面に縦で走っていた。
「どうしたの」
 うーん、ニライはそう唸った。わからないんだ。
 ちょっと今日変よ、しっかりしてよね、落ち着きないよ、何かあったの。国枝マミを捲し立てながら席についた。蝋燭の火は消されていて蛍光灯の輪っかをした明かりがついていた。極端になっていた。

 エビを茹でたものをレタスでくるんでマヨネーズをつけて食べた。もやしを炒めようと考えていたけど一通りの味付けに関する実験は済んでいてあきてしまっている。皿洗いをしていると国枝マミがガムある? ときいてきた。あると答える。カウンターの端の方に吊るしたレジ袋にかけたままだ。いる? ときいてきた。ニライはいらないと答えた。この女とするとき、ガムの匂いがする。
 シャワーに交代で入ってテレビをつけたまま、一度して、あれこれ言い合わずにふたりで眠った。眠るときにミュートにした。国枝マミも記号だったし、ニライも彼女にとって端的な記号になった。時々何もしたくなくなって死にたくなるが、その真似事がこの記号と記号の交わるときに単純な享楽として迫る。ふたりでそのキワに近づけるのがニライは好きだった。彼女は求められることに歓びを覚えているという意味のことを何度も言っている。ニライはその言葉を信じているが時々それが欺瞞に満ちたものなんじゃないかと疑っている時がある。 
結局はお互い寂しいだけなのだ。
 フランス人はきっと済んだ後にあれこれ言い合うのだろうか。ゴダールの「恋人のいる時間」で不倫相手と議論する場面があるが、そもそも国枝との関係においてそれは「恋人のいる時間」ではない。

 金山プリンスホテルからイウラを連れ出すとすぐにタバコが吸いたいと喚くから元来たややこしい交叉点を渡り、交番横の喫煙所に向かった。ブラジルコーヒーで吸えばいいと言ったのに彼は何も言わずにまっすぐそこへ向かった。マルボロを二本続け様に彼は吸った。ニライは最近タバコをやめていたからしばらく煙を当ててくるイウラの風上に移り会話を試みた。前髪の間から見える細い目でニライを睨むイウラは、ときどき細い指先でかき上げて前髪をくしゃくしゃにする。彼の癖である。あの会合というよりかはディスコのパーティーで唯一髪を固めたり染めたりと遊んでいたなかったのは、そもそも毛がもう残っていないヤムオ(彼には眉毛もない)と、生まれてこの方地元の床屋一筋のニライと、イウラだけだった。イウラは地下鉄構内にあるような床屋の千円カットを散髪でして、その帰り道に自前のハサミで路駐している誰のものと知らない車のサイドミラーを頼りにアレンジを加えるのだという。

 昔付き合っていて危うく妊娠させかけたという美容専門学校の女から選別の品にもらったのがそのハサミだったという。本当かどうかわからないが、音楽の専門学校の女からギターを選別にもらって音楽を始めたというから、その女がいなければ彼は床屋か美容師になっていたかもしれない。
 ギターケースを預けているからと、交番にタバコを咥えたままイウラは取りに行ってしまった。すでに3本目だった。おとといの路上演奏で没収されたストリートミュージシャンがいるとヤムオのツイートを今朝みたが、もしかしてイウラだったのか。

 なかなか戻ってこないので交番の前に行くとギシギシに並べられたオフィスデスクの上に巡査と川の字になってマグロの解体ショーのモノマネをしているイウラが見えた。イウラに大きな包丁に見立てた小型画板を脇腹から腰へあてられている丸メガネの巡査と目があった。気まずくなって喫煙所に戻った。交番の隣のミスタードーナッツから4、5人中年女性が飛び出してきて大津通りの方へ全力疾走で駆け抜けていった。マネキンのフリをした赤い背広を着ているピエロが慎重な足取りをして進んでいるに突進して蹴散らしていった。駅の北口から止めどなく人間たちが出し入れされていた。

 

()


 骨に絡みつくいくつもの繊維が記憶していた。何を? 言いようのない苦しみを。時間は関係ない。頭に残すものじゃない。全身が流動する体の外と接続し、関係しあい、跳ねれて繰り返し、記憶する。時間は関係ない。時間の矢は過去から未来へ進む、秩序から混沌cosmos to chaosへ。あるいは熱力学第二法則、時間、時間、時間……
 無数に広がり地を這う根よ、骨に絡みつく繊維よ、一切を暴力で引き裂いてやる、熱力学第二法則

 彼方へ、彼方へ……言葉の線よ、無数の筋よ、流動し、流れ、過ぎてゆく日々よ……mot


 ピンクフロイドの「夜明けの口笛吹き」はサイケデリックの隆盛していた時期にLSD漬けのシド・バレットがH簿すべての曲を書いた。このアルバムのレコーディングの最中、ビートルズが「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を隣のスタジオで制作していた。1967年のことである。
 

 もう書けまい、つながらない、筋たちよ、火は起こり、酸素を喰らい、燃える炎よ、お前はもうもどる道をしらない。物は朽ちて、時は過ぎ、現在は過去へ、炎は燃えて……
 薬物中毒からシド・バレットは翌年3月に脱退する。この年、ユーリィ・ガガーリンが墜落死して、マーティン・ルーサー・キングが暗殺され、五月革命があって、ロバート・ケネディが暗殺され、週刊少年ジャンプが創刊し、川端康成ノーベル文学賞受賞を受賞し、和田アキ子がデヴューし、ゴルゴ13の連載が始まり、三億円事件が起きて、文化大革命が起きる。
書くことで蝕まれる過去たちよ、無造作に、つながりなく、漂え、苦痛はもういらない、あるのは、ただの実感でしかない。
 この七年後、ピンクフロイドはスタジオアルバム9枚目、「炎~あなたがここにいてほしい Wish You Were Here」を発表する。シド・バレットの抜けた後のバンドは70年代に入り、「原子心母」「おせっかい」そして「狂気」といったアルバムで成功をおさめていた。環境の変化から難航した末に発表された「炎~あなたがここにいてほしい Wish You Were Here」のレコーディングに、脱退したシド・バレットが現われたという逸話がある。デヴュー当時、アイドル扱いされていたシドだったが、面影はなく、太り禿げ上がった中年の男だった。メンバーの誰しもがかつての仲間だったとは気づかないほどだった。
 いわゆるコンピネーションアルバムの体裁をした「炎」は1曲目と5曲目、つまり始まりと最後に「Shine On Crazy Diamond」という曲が全体をサンドイッチする構成になっている。歌詞がシド・バレットの身に起きる困窮へ指摘と解釈する意見もある。


Come on you raver, you seer of visions, come on you painter, you piper, you prisoner, and shine!


 もう書き写すことも残っていない、
  絶望も、希望もない、


 無秩序な断片たちが紡がれてはほつれ合う、
  厳格な筋道はない! 

   あるのはばらけた広がり、


Nobody knows where you are, how near or how far.


 根はもう持たない、
  あるのは散らばった、

   骨のまわりに広がる糸たちよ、

    はじまりからおわりへpoint α→point ω


Come on you boy child, you winner and loser,
come on you miner for truth and delusion,
and shine!


          燃えよ、骨の髄まで……
                   

                 (了)
 
pink floyd「Shine On Crazy Diamond」より引用)