おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

公開できる範囲の日記(2020 8.8〜21)

8/8

バイト。行き帰りの電車でネルヴァル「火の娘たち」を読む。昼飯に行こうとしていたマックが臨時休業していた。薬を飲むことをすっぽかす。どこも寄らずに帰る。夕飯は餃子。風呂に入り「アンチ・オイディプス」下巻に入る。なるべく早めに眠りたい。緊急事態宣言なんて名ばかりだ。都市部に人はうじゃうじゃいる。

 

8/9

バイト。行き帰りの電車でネルヴァル「火の娘たち」を読む。休憩中にレコ屋にいきジョン・レノン「イマジン」EP、ピンク・フロイド「時空の舞踏」LPを買う。店員さんにまた会いたい。店長にペンに関して謎の注意を受ける。フリクションは使っちゃいない…… 「火の娘たち」を読み終える。「イマジン」のB面がすごい今の自分だった。電話をする。変な話しかしなかった。f:id:abc27kan:20200921071008j:image

 

8/10

8時に起きる。トーストとキウイを食べる。「アンチ・オイディプス」一節分よむ。中上健次「野性の火炎樹」を読み始める。サクサク読んでしまいすぐ春になる。12時に妹マックのドライブスルーを試みる。かなり混んでいた。15時にバイト先へ電車に乗る。出勤前にブックオフに寄り、サド「悪徳の栄え」(昨年の京都で角川文庫版を買ったがこれは河出文庫の分冊)と舞城王太郎ディスコ探偵水曜日」(揃い)を買う。バイトは連休のおかげが比較的空いている。生きた帰りにフォークナー「八月の光」を読む。

 

8/11

7時に起きる。パスタサラダ。デトックス。昼にペペロンチーノ。午前のうちに「野性の火炎樹」を読み終える。暑すぎて全裸で昼寝を試みる。昨夜はあまり眠れなかった。「アンチ・オイディプス」を読み進める。父親が車に扇風機をつけてくれた。この車にエアコンは付いていない(なんてこった)朝のうちに読むのを断念した本を返しに地元図書館に行った時滝のように汗をかいたから助かる。

 

8/12

暑さで7時に目が覚める。昨日の残りのビビンバを食べる。「アンチ・オイディプス」を読み進める。「八月の光」と中上健次「奇蹟」に手をつける。昼もビビンバを食べる。仮面ライダー剣の第3話をみながら食べる。まったくもってケッ作だ。暑くて14時過ぎまで昼寝する。坂口恭平「tokyoゼロ円ハウスゼロ円生活」を読み始める。都市の廃棄物で生活が可能と言う東京の土着性に白眉。「太陽の季節」と「破局」が青年の性質を時代と絡めてその変遷を辿れないか、論の案を思いついたがとても自分でやりたいとは思わない(誰かやってみてください)大学図書館に卒論で使えそうな本の郵送貸出を依頼したがお盆休みなので当分届かないだろう。「アンチ・オイディプス」夕方の段階で第4章第2節まで。この本と出会うきっかけの集中講義は一年前の夏。読み終えるのに一年かかっていることになる。18時と21時にサークルのオンラインに顔を出す。一度に多くの人間が話してたらどうしようもない。

 

8/13

女とお出かけ。停電に悩まされたがA24プロダクションの「ホットサマーヌード」だっけ?映画を見る。もちろんゼミのオンライン飲み会は蹴った。夏って感じだ。

 

8/14

「アンチ・オイディプス」読み終える。小説はほとんど読めない。夕飯は寿司。寝る直前でサークルの原稿の直しの連絡が来る。なぜ今おくるんだ?昼間にしてくれてたらできたのに。

 

8/15

バイト。二日分の半袖シャツのアイロンをかける余裕が朝にはあった。パートの人からグレアム・グリーン「情事の終わり」をもらう。比較的空いている。帰りにレコ屋でYMO「ソリッド・ステイト・サバイバー」山崎ハコ「流れ酔い唄」のLPを買う。セブンイレブンの二郎系ラーメンを食いたかったがどこにもなく、ムカつきながらカルボナーラを惰性でつくる。金麦で酔う。サークルのOBのオンライン飲み会に若干参戦。どいつもこいつも元気そうだった。酔いが覚めずに沈。f:id:abc27kan:20200921075322j:image

 

8/16

バイト。比較的空いている。フォークナー「八月の光」読了。レモンとミントを買って帰る。モヒートを作る。昨夜より酔いは薄い。

 

8/17

7時に起床。物に手がつかない。17時からアルバイト。やはりよく物に手がつかない。行き帰りに泥棒日記を読む。引き戸のシャッターが脱線してしまうアクシデントを起こし、死んだように帰り死んだように眠る。次の出勤が恐ろしくて仕方ない。

 

8/18

今日から四日連続で集中講義オンライン。1日3コマ消化して800字のレポート×3つ。四日続くなんて正気じゃない。読書はつづかない。坂口安吾の本が読みたくなる。セブンの二郎系をゲットする。当分食べなくてもいいと思える。悪ノリではてなブログを開設する。坂口恭平「tokyoゼロ円ハウスゼロ円生活」を読み終える。「アンチ・オイディプス」の分裂症というか…リゾーム、逃走線で定住せず適度に繋がる生き方に近いのかなと感じた。生活と都市の関係について考えさせられた。坂口安吾堕落論」をよむ。

 

8/19

集中授業2日目。17時レポートを提出する。本を読もうにも何を読もうか。適当につまみ食い。バイト先の連絡が取れる人に引き戸の相談をすると直ったらしく、大事ではないことが分かる。とはいえ気をつけねば。昼にちくま文庫坂口安吾全集①と「「青年の環」論」を買う。酷く暑い。

 

8/20

集中授業3日目。昨日のキーマカレーを朝昼とる。この日は午前のうちに授業を消化できて昼寝を挟んで16時に課題提出する。Twitterの読書垢でネカマ活動。多くの反応を受け、呆れる。

https://twitter.com/atk27kan/status/1296310699761627137?s=21

失われた時を求めて」「青年の環」を読み進める。昼にようやくゆうそうかしだしの本が届く。野家啓一「物語の哲学」をノートに取り始める。アクション・ペインティングをしてみたくなる。

 

8/21

ここ数日と比べ寝坊…14時にみおえた授業を16時に課題を消化する。内定先の社員さんと焼肉に行く話が出ていたがコロナの状況が悪いから中止。明日のバイト休みが自然とゆるい物に。

坂口安吾全集①が届く。昨日のネカマツイートがかなり伸びる。f:id:abc27kan:20200921075453p:image

やれやれ、ぼくはパスタにs.....

増殖するパラレルと失われた時を取り戻せ ー町屋良平「1R1分34秒」

スマホのメモ欄漁ってたらだいぶ前に書いたものが出てきました。どこにも載せてないのでここに貼っておきます。あくまでわたしの所感です。たしか)

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「試合の記憶とビデオの自分の動きとの符号と差異、ありえたかもしれないKO勝ち、ありえたかもしれない引き分け、ありえたかもしれない判定負けを、パラレルに生きる他ないのだ」


 パラレルに生きるとは何か、二者択一とまでならなくとも、至るとこに選択肢の配置された「分岐点」にひとは遭遇する。

 道を誤っても時間の壁で分岐点の地点には戻れない。

 あの時、左に曲がっていればよかったと後悔する。

 もし……ならばという「If」を人は後悔の場面で口にしてしまう。だが常にこれを意識しているわけではなく左に曲がってしまったことに悔やむ時ばかりにパラレルはひらく。代替案ばかりが吹き出す。 

 

 町屋良平の「1R1分34秒」は試合に敗れたボクサーの後悔や反省つまり反復するパラレル増殖に苛まれて物語が始まる。


『こう見直すの、中間距離を耐えてぼくのほうが先に腹を打つべきだったし、ぼくのほうが先にアッパーを見せるべきだったし、ジャブも捨てるパンチに関してはみわけやすかったのだから、左フックを振りながら接近し、練習していた五発までのコンビネーションを打ち込んでいれば、ぜんぜん展開は違った筈だ』


 この部分を見てもらうと分かる通り、ボクサーというのは身体と思考のひとつひとつそれぞれがボクシングという勝負という世界に無数に枝分かれする膨大な量の分岐が、瞬間的に、濁流となって勢いよくなだれ込むものなのだ。

 主人公はこの分岐によって産出するパラレルに負け試合のあとを鬱屈して過ごすが、処理しきれない分岐の連続をパラレルの悪夢へと誘うものとして、試合を振り返るために見ている「映像」がある。ビデオが主人公の外部記憶として、ボクサーのパラレルの素材になって過剰に摂取してしまう。


 物語の後半でやや挑発じみたウメキチの特訓によりこのパラレル地獄で陥っていた『きれいなボクサー』像を打ち砕き、初戦KO勝ちの喜びを取り戻していく。これはある種のパラレルの分岐というより、ひとつ道を選択したことを肯定する瞬間といえよう。


『ぼくはボクサーだから、ボクシングでぜんぶかたをつける』


 終盤、主人公の自宅である安アパートの窓を開け迫ってくる茂る木からライセンスを取った日のことを思い出し、友人のつくってくれた自分のドキュメンタリーであるビデオ映画を見て試合前後の失われていた記憶を思い出す。再三繰り返したパラレル、その分岐の総体、つまりは主人公の足跡の象徴としてこの木は窓を開けて乗り込んでくる。減量の苦悩などの試合前の忘れていた日々を、ボクサーとしての自分をまた敗戦で失いたくない、失いたくないからこそ試合に勝つという選択を決めて、物語はあっけない結果の書き方をして終わる。
 この見出された瞬間にこそパラレルの関係よりも大切な自己の回復がある。

公開できる範囲の日記(2020 7.31〜8.7)


7/31
「アンチ・オイディプス」第三章第四節を読み終える。大江健三郎の「ピンチランナー調書」を読む。ミシェルレリスの「獣道」のいくつかを読む。昼、炒飯を食べながらずっと楽しみにしていた、NHK BSでやってたのを録画した「溺れるナイフ」を見ようとするが、機械の故障か冒頭30分しか見れず憤慨。「失われた時を求めて」の第一編第二部「スワンの恋」を読み始める。夕飯のとき、テレ朝のBSでプロレスを見る。コロナで無観客試合を強いられる中、選手の怒号に虚しさを覚える。悪役レスラーが執拗に対戦相手の髪を切りたがり、会場のいたるところにハサミを仕込んでいたのは、今のプロレスってそうなのかと驚いたが、最終的に対戦相手にエレベーターに打ち込まれてカウント成立して試合が終わったときは最早リングなんて枠は存在しないことがわかった。(なにを言ってるかわからないかもしれない)この日、ニュースでコロナワクチンを6000万人分を米国の企業から政府が手配しているという内容のニュースを見た。安全性云々で意見が飛び交うのも見た。

 

8/1
朝から夕方までアルバイト。通勤の電車で古川日出男「13」を読み進める。思ったよりうまく進まない。昼に古井由吉「雨の裾」を買う。出版社が品切れになっているらしい(あくまでらしい、だから)。夕飯が家に帰ってもない日なので松屋で牛丼をテイクアウトし、YouTubeに上がってる吉増剛造の制作動画を見ながら食べる。

 

8/2
朝から夕方までアルバイト。昼にマック。帰りに中古レコード屋レッド・ツェッペリンの「Ⅳ」のアナログを買う。中学の頃お年玉でフランク・ミラーのグラフィック・ノベル(アメコミっていうんだろうけど、これはもっと重い。中学生が理解できるとは思えない)の「ダークナイト・リターンズ」で見知った「天国への階段」がようやく聴ける音源を手に入れたことになる。逆再生する勇気はもちろんない。酒を飲む。

 

8/3
酒のせいで目覚めが悪い。読みかけの本を開いては水曜締め切りのサークルの原稿の文字起こしをする。とても間に合うとは思えない。吉増剛造の葉書動画を見る。Amazonで比較的破格中古のディラン・トマスの全集の端本を買う。昼にざるそば。17時から21時までアルバイト。今月から三連勤にした。咳をする親子、マスクをしない中年、うーん。帰りに電車に乗る前に金曜に母親がくれたアルコール液を鞄の中にぶちまけてイヤフォンが水没する。コカコーラを買って帰り、ラムと割って飲む。寝る前にディラン・トマス大江健三郎の好きなブレイクやイエイツについて調べる。英国の詩なんて読んだことがない。そろそろ卒論に戻らないといけない。

 

8/4
古川日出男「13」を読み終える。昼飯を食べながら録画した100分de名著「モモ」を見る。番組の趣旨と「モモ」の論点が真っ向から対立していて鼻で笑った。昼飯を食べてから大江の「ピンチランナー調書」を読み終える。入れ替わりをガジェットにしたスピリチュアルというか宇宙人(これは司修の表紙絵に釣られている節もある)というか、SFチックな話かと思ったが、想像以上に政治的な話だった。レッド・ツェッペリンを聴く。やっぱり「天国への階段」は最高。夜にサークル原稿の文字起こしを終える。胸が締め付けられる気持ちだ。

 

8/5
具合が悪いので小さい頃から罹っている病院へ行き、喉の薬をもらう。脱水症状らしい。今年の夏は暑い(暑い)。野間宏「暗い絵」を読む。昼寝。夕方から何故かカレーを作らされる。昼寝の前に提出した原稿にミスが発覚し、夜に直す。ディスコード上のやり取りで、部誌の枚数調整で一枚欲しいからと、その場のノリで絵の依頼を受ける。日付が変わる頃に提出し、就寝。

 

8/6
8時過ぎに起きる。安部公房の短編を読む。太いハードカバー本にてがでない。野間宏「青年の環」第一章に手を出す。午後3時からオンラインのゼミに参加する。終わってからディラン・トマスの詩集が届く。暑い。夕飯はハンバーグ。食べた後に犬と散歩する。寝る前にお電話をして、安部公房の短編集を読み終える。密会や燃えつきた地図の好きな自分はどうも手応えのようなものを感じなかった。

 

8/7
8時前に起きる。「アンチ・オイディプス」第3章第5節を朝食の後に読む。スワンの恋をすこし読む。青年の環を読む。ミシェル・レリス「獣道」を読み終わる。「アンチ・オイディプス」の上巻を読み終える(河出文庫で読んでいた)一年近く前に読んだ時と比べ、理解はできた印象がある。

 

おぺんぺん大学 学長挨拶

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 学長なんていないからかわりに私がつらつら文章を並べてその場を乗り切ろうと思うんだが、なんだ貴様、ふざけてるのか、と笑ってラリってるグラサンのおっちゃんが肩を叩いてきそうだが、ヘイヘイ、日本のサンディエゴに股を挟んでバナナロケットの勢いで跨り続けること20年近いところだが、だいたいサンディエゴなんてようわからんしこんなおっかない国から出たことなんざ一度もねえ鶏肉がこのブログの主だ。

 

 おぺんぺん大学に特に深い意味はない。ちょっと可愛いから付けた。名付けちまった。名付けちまったのしょうがない大学。文学部。やーい。大学なんて平気で名乗れちまう。ひゃ〜。おっかないねぇ。自分のハンドルネームに大学をつけてみたらそれなりにそれっぽくなるんじゃないかなと思ってた時期もあった、だがどうもうまくいかない。ださい。おぺんぺんをつけるとなんとなく可愛くなる。ペンギンが教鞭をとってそうなゆるふわな雰囲気がにじみ出てくる、そんな気がする。おぺんぺんのぺんからペンギンを想起するなんてずいぶん短調だから趣向を変えて尻を叩いているオノマトペにしてしまうと途端にピンク色のお店に見えてきてしまうからどうもその危うさが大学と対をなしてきてしまう。私は今年度で大学生活とやらは終わってしまう(もっとも卒論という大きな壁が残っていてへどもどどう登るか難渋してるのだが)与太者であるから、そんな中途半端なものが大学を名乗るブログなんておっかないことこの上ない。大学を卒業してからも自称大学にモラトリアムを引きずり続けるつもりか、と社会と教育の現場に境界線を引き続けて行きたい輩は言うだろうが私にとって大学にもなればそんな境界はうやむやになってるとしか思えない。ようは、自主的にいかに好きな分野に対してのめりこめるかが大学生たるものの真価がこの四年間には問われていたと考える。やはり井の中の蛙、高校時代に培っていった自意識の砦に橋をかけ新たな領土拡大あるいは異文化理解を求めたかったが生憎手元に残ったのは中途半端な文系学問の知識ばかりであった。共通の流行り物に浸る周囲の学生に私は疎かった。そんなものに連なることは高校時代にとうに諦めていた。大学に入れば文学を少しでもかじっている輩に出会えるかと変な期待をしたが、これまた私の経験上、期待とは裏切られるものであった。コンテンツ布教なんてものも挑戦してみたが貸した本が返ってこないというバミューダ現象に陥った。私の他者との理解のために駆り出した彼ら英雄達の消息は今もなお待ち続けている。とは言えなんの話だったか初めてのブログの記事でつらつらとくだらないことを拵えても仕方ないが、私がこの終わりかけている四年間に少なくとも胸を張って言えることはなんとなく本を読み続けたということである。学内学外問わず知り合った人間に時に驚かれ、時に呆れられたほど少なくとも周囲の人間よりかはなんとなく本を読んだ。なんとなくである。しっかりと完全に精読し続けたとは胸を張っては言えない。精読してみた文学作品や人文書は確かにあるが片手でもしかしたら数えて切れてしまう程度かも知れない。私が敬愛する大学関係者の幾人かは若いうちにできる特権だ、楽しみで読む本と精読して論文にするための読みとは全然違う、と私の蛮行ともとれる濫読に免罪符を貼り付けてくださったが、このごろ読み終えることだけに重きを置いているようにもとれる自分のなんとなくの読書に呆れを覚えてきていた。そして自分の読みというのは浅はかなものなのではないのかと弱気にもなり始めた。四月あたりに大江健三郎の「死者の奢り」で読書会をネットでした時、これは確信に変わった。このままではまずい、まずいぞ。こんなんで卒論はおろか目の前の文学作品を読むことなんてできやしないぞ。私は四年間何を読んでいたのではなく、どう読んでいたのか?何も本当は読めていなかったのじゃないのか?と。安く手に入ることをいいことにどんどん培養される積読本たちに手を焼いてコントロールもできてやしない。すこぶるどうしょうもない有り様になりつつある。

 さてどうもこうにも、去勢された雄牛だ。篭城を決め込むとどうにも立派な、物書きの吃りになった。てっきり逆の作用があるものだと思っていたが、どうやら私の場合、世間と肌で接続し合うことが多かったらしい。それが時に負荷となり、軋轢となり、言語になって溢れることがあったが、今や画面の窓でしか触れ合えない。深刻なほどに物が書けなくなった。どれもこれも模写のような遊び臭いものばかり、字面に浮き出す。私のかつての文体はどこにもありやしない。以下に引用するのはかつて流行した桃太郎を読み聞かせてもらいたい子供が親御さんに「ピンチョンっぽく」「半沢直樹っぽく」などといったように、無茶振りをするという体の大喜利に自身の小説の文体を当てはめていったという文体の試行の残滓である。

(もちろん上げる矛先がないからどこにも見せたことはない筈だ)一応、当該の小説のリンクは貼っておこう(ニヤニヤ)

 

子「桃太郎読んで」
母「昔々あるところに」
子「壮麗天然美少女金魚ちゃんぽく」
母「あれはこんがりなおじいちゃんがおじいちゃんじゃなかった頃でした。私のお母さんのお母さんが裏山の竹やぶにまみれていった葉加瀬太郎を切りに、まだベビベビベイベーなおじいちゃんにぶら下がるおじいちゃんなおじいちゃんは河へおじいちゃんをおじいちゃんしにいきました。河原にはおじいちゃん達がおじいちゃんをそよがせて川上から流れてくる見栄を張ったふてぶてしい桃の粒を流しそうめんの要領でどんぶらこするのが流行っていたのです。私のお母さんのお母さんはあさっぱから葉加瀬太郎を剥きに仕事をしているのにおじいちゃんのおじいちゃんなおじいちゃんはおじいちゃんでした。おじいちゃんは一粒の桃を桃にして桃と見せかけて実はバラバラ痛いの痛いの遺体の腰部なんじゃねえの?とりま真っ二つしてみっか?と鉈で細切りにしたら粒子から折紙先輩が顔を出したの」

蒼麗天然美少女金魚ちゃん|保嘉伸オ|note


子「桃太郎読んで」
母「昔々あるところに」
子「百鬼姫っぽく」
母「き!き!き!音もなく忍び寄るはよだれを垂らし裂けた口を釣り上がらせる鬼畜の提灯、ソースをかけられたまちびとのでかびた!おほほ!おほほ!こりゃあ!大漁大漁!集落を食いてずいずい旅をするは鬼ヶ島出身のおぼろろろ船虫という鬼。沼よりも底なし!お!さては君は僕ら鬼がわるものだとみたてるのだな!君たちは間違っている!と叫びながらかりんとう棍棒を振りかざしてミンチミンチ〜民!民!打破!ぱぱ!まま!むすこ!ごっくん!ぞっこん!あー人間うめえわやっぱ!さておぼろろろ船虫くんの蛮行は島ぐるみのチンドン屋祭り騒ぎ。流石にやべえ!しぬ!と慌ててみずからの舌にまかれたひとびとはとりま町を真っ二つに突き進むさむいな川の上流から軽四くらいの桃を流してもらって救世主をでっち上げたの!軽四の桃から生まれたから燃費がいいの!大発!と名付けられてすくすくすくすく育ったふりをした。いちたすいちがにもわからない幹のように育つから口ぐちに「あーこれひょっとして木じゃね?木じゃね?」ってなって気がついたらおぼろろろ船虫くんが島に帰るために斧を振るってどっかーん!おぼろろろ船虫くんに帰ってもらうために燃費がいいの!大発!を伐採してしまったの。どうしてぼくをきってしまったんですかぼくはにんげんだよきじゃないよゆるさないおにもにんげんもゆるさないゆるさないおまえたちみんなきになってきになってきになってそこのおまえもそこのはなくそつむいでるのもそこでおっぱじめてるのもそこのはなげらいだーもぽぽぽぽーんだよ。」

「百鬼姫」|保嘉伸オ|note


 これは変化であり退化ではない。丸くなったとか角ばったというか、あるいは成長などという高低差を生み出す物ではないにしろ、私は以前の文体を棄てたといえる。読んだものに影響を受けるようでしか私は書いてこれなかったがこれまでと違い明確な筋道たるものはもはや今の私にはない。それを特定の作家に押し付けるとか、その系統にひたるとか、そう言ったことがどうにもうまくできなくなった。それは詩が私にわからないように、小説の類のいくつかも、もうわからないままにあるようなことに近い。

 この大学はいわば「書くこと」と「読むこと」の私のリハビリである。そもそも「書くこと」の中にある主題や主旨なるものを放棄したところからスタートした私は、いまもなおこの「書くこと」と「読むこと」の両者に何も持ち合わせていない。虚無という大穴を持ったまま貪るように読み、そして今も本意が掴めかねぬ雑文を貪るように書いている。いまの桃太郎の引用の前のブロックと、引用後のブロックは別の日に書いている。私はいまこの引用後のこれを書いているが前の方はろくに見返していない。悪い癖だ。「書くこと」も「読むこと」も直進的で後戻りをあまりしない。それは一本道を一方通行するしかできない視野が狭く、バックにシフトレバーが向かわない故障車である。もう一度同じ道を辿れるか。「読むこと」はもう一度初めから読むことでそれは可能だ。だが「書くこと」はどうだ。終わりは見えないものに、後戻りをすればどこがまえでどこが後ろか分からなくなる。わからなくなり書けなくなるのがどうしてか恐ろしく、立ち止まることもできず背水の陣で書き始める場合がおおい。「書くこと」は「読むこと」以上に私を苦しめる呪いのように君が悪い。逃げ場は原稿用紙の外側に逃れるだけだ。そこには構成とか筋道とか、整合性が求められる。矛盾を発生させればサイレンを鳴らして秩序は私を粉砕する。「書くこと」の厳密さと、「読むこと」の厳密さは釣り合わない。私が何を書こうが、読み手は「読むこと」がどこまでできるかわからない。もうとっくにこの文章に嫌気がさしてブラウザバックされてるかもしれない。きっとそうだ。私はもう一度この厳密さの外側のゆるいところで、ゆるいものを書いてゆるく読まれるような、ゆるいことをしたい。このまえ芥川賞を取った作家のように読者の感想に興味を示さない懐の広さと書くことへのモチベーションが釣り合うのかわからないが、私はどうにもこの呪われたような一連の所作にひどく愛着があるらしい。それは物語に逃避して現実を処理することや既存の哲学や思想から論理を固めるために考えを綴り整理することなどではない。もっとゆるい、「書かれたもの」の生成にどこかまだ釈然としない、諦めきれない何かがあるのだ。
 だから気ままに好き勝手書いてゆく。