おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

おぺんぺん大学 学長挨拶

f:id:abc27kan:20200821205612j:image

 学長なんていないからかわりに私がつらつら文章を並べてその場を乗り切ろうと思うんだが、なんだ貴様、ふざけてるのか、と笑ってラリってるグラサンのおっちゃんが肩を叩いてきそうだが、ヘイヘイ、日本のサンディエゴに股を挟んでバナナロケットの勢いで跨り続けること20年近いところだが、だいたいサンディエゴなんてようわからんしこんなおっかない国から出たことなんざ一度もねえ鶏肉がこのブログの主だ。

 

 おぺんぺん大学に特に深い意味はない。ちょっと可愛いから付けた。名付けちまった。名付けちまったのしょうがない大学。文学部。やーい。大学なんて平気で名乗れちまう。ひゃ〜。おっかないねぇ。自分のハンドルネームに大学をつけてみたらそれなりにそれっぽくなるんじゃないかなと思ってた時期もあった、だがどうもうまくいかない。ださい。おぺんぺんをつけるとなんとなく可愛くなる。ペンギンが教鞭をとってそうなゆるふわな雰囲気がにじみ出てくる、そんな気がする。おぺんぺんのぺんからペンギンを想起するなんてずいぶん短調だから趣向を変えて尻を叩いているオノマトペにしてしまうと途端にピンク色のお店に見えてきてしまうからどうもその危うさが大学と対をなしてきてしまう。私は今年度で大学生活とやらは終わってしまう(もっとも卒論という大きな壁が残っていてへどもどどう登るか難渋してるのだが)与太者であるから、そんな中途半端なものが大学を名乗るブログなんておっかないことこの上ない。大学を卒業してからも自称大学にモラトリアムを引きずり続けるつもりか、と社会と教育の現場に境界線を引き続けて行きたい輩は言うだろうが私にとって大学にもなればそんな境界はうやむやになってるとしか思えない。ようは、自主的にいかに好きな分野に対してのめりこめるかが大学生たるものの真価がこの四年間には問われていたと考える。やはり井の中の蛙、高校時代に培っていった自意識の砦に橋をかけ新たな領土拡大あるいは異文化理解を求めたかったが生憎手元に残ったのは中途半端な文系学問の知識ばかりであった。共通の流行り物に浸る周囲の学生に私は疎かった。そんなものに連なることは高校時代にとうに諦めていた。大学に入れば文学を少しでもかじっている輩に出会えるかと変な期待をしたが、これまた私の経験上、期待とは裏切られるものであった。コンテンツ布教なんてものも挑戦してみたが貸した本が返ってこないというバミューダ現象に陥った。私の他者との理解のために駆り出した彼ら英雄達の消息は今もなお待ち続けている。とは言えなんの話だったか初めてのブログの記事でつらつらとくだらないことを拵えても仕方ないが、私がこの終わりかけている四年間に少なくとも胸を張って言えることはなんとなく本を読み続けたということである。学内学外問わず知り合った人間に時に驚かれ、時に呆れられたほど少なくとも周囲の人間よりかはなんとなく本を読んだ。なんとなくである。しっかりと完全に精読し続けたとは胸を張っては言えない。精読してみた文学作品や人文書は確かにあるが片手でもしかしたら数えて切れてしまう程度かも知れない。私が敬愛する大学関係者の幾人かは若いうちにできる特権だ、楽しみで読む本と精読して論文にするための読みとは全然違う、と私の蛮行ともとれる濫読に免罪符を貼り付けてくださったが、このごろ読み終えることだけに重きを置いているようにもとれる自分のなんとなくの読書に呆れを覚えてきていた。そして自分の読みというのは浅はかなものなのではないのかと弱気にもなり始めた。四月あたりに大江健三郎の「死者の奢り」で読書会をネットでした時、これは確信に変わった。このままではまずい、まずいぞ。こんなんで卒論はおろか目の前の文学作品を読むことなんてできやしないぞ。私は四年間何を読んでいたのではなく、どう読んでいたのか?何も本当は読めていなかったのじゃないのか?と。安く手に入ることをいいことにどんどん培養される積読本たちに手を焼いてコントロールもできてやしない。すこぶるどうしょうもない有り様になりつつある。

 さてどうもこうにも、去勢された雄牛だ。篭城を決め込むとどうにも立派な、物書きの吃りになった。てっきり逆の作用があるものだと思っていたが、どうやら私の場合、世間と肌で接続し合うことが多かったらしい。それが時に負荷となり、軋轢となり、言語になって溢れることがあったが、今や画面の窓でしか触れ合えない。深刻なほどに物が書けなくなった。どれもこれも模写のような遊び臭いものばかり、字面に浮き出す。私のかつての文体はどこにもありやしない。以下に引用するのはかつて流行した桃太郎を読み聞かせてもらいたい子供が親御さんに「ピンチョンっぽく」「半沢直樹っぽく」などといったように、無茶振りをするという体の大喜利に自身の小説の文体を当てはめていったという文体の試行の残滓である。

(もちろん上げる矛先がないからどこにも見せたことはない筈だ)一応、当該の小説のリンクは貼っておこう(ニヤニヤ)

 

子「桃太郎読んで」
母「昔々あるところに」
子「壮麗天然美少女金魚ちゃんぽく」
母「あれはこんがりなおじいちゃんがおじいちゃんじゃなかった頃でした。私のお母さんのお母さんが裏山の竹やぶにまみれていった葉加瀬太郎を切りに、まだベビベビベイベーなおじいちゃんにぶら下がるおじいちゃんなおじいちゃんは河へおじいちゃんをおじいちゃんしにいきました。河原にはおじいちゃん達がおじいちゃんをそよがせて川上から流れてくる見栄を張ったふてぶてしい桃の粒を流しそうめんの要領でどんぶらこするのが流行っていたのです。私のお母さんのお母さんはあさっぱから葉加瀬太郎を剥きに仕事をしているのにおじいちゃんのおじいちゃんなおじいちゃんはおじいちゃんでした。おじいちゃんは一粒の桃を桃にして桃と見せかけて実はバラバラ痛いの痛いの遺体の腰部なんじゃねえの?とりま真っ二つしてみっか?と鉈で細切りにしたら粒子から折紙先輩が顔を出したの」

蒼麗天然美少女金魚ちゃん|保嘉伸オ|note


子「桃太郎読んで」
母「昔々あるところに」
子「百鬼姫っぽく」
母「き!き!き!音もなく忍び寄るはよだれを垂らし裂けた口を釣り上がらせる鬼畜の提灯、ソースをかけられたまちびとのでかびた!おほほ!おほほ!こりゃあ!大漁大漁!集落を食いてずいずい旅をするは鬼ヶ島出身のおぼろろろ船虫という鬼。沼よりも底なし!お!さては君は僕ら鬼がわるものだとみたてるのだな!君たちは間違っている!と叫びながらかりんとう棍棒を振りかざしてミンチミンチ〜民!民!打破!ぱぱ!まま!むすこ!ごっくん!ぞっこん!あー人間うめえわやっぱ!さておぼろろろ船虫くんの蛮行は島ぐるみのチンドン屋祭り騒ぎ。流石にやべえ!しぬ!と慌ててみずからの舌にまかれたひとびとはとりま町を真っ二つに突き進むさむいな川の上流から軽四くらいの桃を流してもらって救世主をでっち上げたの!軽四の桃から生まれたから燃費がいいの!大発!と名付けられてすくすくすくすく育ったふりをした。いちたすいちがにもわからない幹のように育つから口ぐちに「あーこれひょっとして木じゃね?木じゃね?」ってなって気がついたらおぼろろろ船虫くんが島に帰るために斧を振るってどっかーん!おぼろろろ船虫くんに帰ってもらうために燃費がいいの!大発!を伐採してしまったの。どうしてぼくをきってしまったんですかぼくはにんげんだよきじゃないよゆるさないおにもにんげんもゆるさないゆるさないおまえたちみんなきになってきになってきになってそこのおまえもそこのはなくそつむいでるのもそこでおっぱじめてるのもそこのはなげらいだーもぽぽぽぽーんだよ。」

「百鬼姫」|保嘉伸オ|note


 これは変化であり退化ではない。丸くなったとか角ばったというか、あるいは成長などという高低差を生み出す物ではないにしろ、私は以前の文体を棄てたといえる。読んだものに影響を受けるようでしか私は書いてこれなかったがこれまでと違い明確な筋道たるものはもはや今の私にはない。それを特定の作家に押し付けるとか、その系統にひたるとか、そう言ったことがどうにもうまくできなくなった。それは詩が私にわからないように、小説の類のいくつかも、もうわからないままにあるようなことに近い。

 この大学はいわば「書くこと」と「読むこと」の私のリハビリである。そもそも「書くこと」の中にある主題や主旨なるものを放棄したところからスタートした私は、いまもなおこの「書くこと」と「読むこと」の両者に何も持ち合わせていない。虚無という大穴を持ったまま貪るように読み、そして今も本意が掴めかねぬ雑文を貪るように書いている。いまの桃太郎の引用の前のブロックと、引用後のブロックは別の日に書いている。私はいまこの引用後のこれを書いているが前の方はろくに見返していない。悪い癖だ。「書くこと」も「読むこと」も直進的で後戻りをあまりしない。それは一本道を一方通行するしかできない視野が狭く、バックにシフトレバーが向かわない故障車である。もう一度同じ道を辿れるか。「読むこと」はもう一度初めから読むことでそれは可能だ。だが「書くこと」はどうだ。終わりは見えないものに、後戻りをすればどこがまえでどこが後ろか分からなくなる。わからなくなり書けなくなるのがどうしてか恐ろしく、立ち止まることもできず背水の陣で書き始める場合がおおい。「書くこと」は「読むこと」以上に私を苦しめる呪いのように君が悪い。逃げ場は原稿用紙の外側に逃れるだけだ。そこには構成とか筋道とか、整合性が求められる。矛盾を発生させればサイレンを鳴らして秩序は私を粉砕する。「書くこと」の厳密さと、「読むこと」の厳密さは釣り合わない。私が何を書こうが、読み手は「読むこと」がどこまでできるかわからない。もうとっくにこの文章に嫌気がさしてブラウザバックされてるかもしれない。きっとそうだ。私はもう一度この厳密さの外側のゆるいところで、ゆるいものを書いてゆるく読まれるような、ゆるいことをしたい。このまえ芥川賞を取った作家のように読者の感想に興味を示さない懐の広さと書くことへのモチベーションが釣り合うのかわからないが、私はどうにもこの呪われたような一連の所作にひどく愛着があるらしい。それは物語に逃避して現実を処理することや既存の哲学や思想から論理を固めるために考えを綴り整理することなどではない。もっとゆるい、「書かれたもの」の生成にどこかまだ釈然としない、諦めきれない何かがあるのだ。
 だから気ままに好き勝手書いてゆく。