シーソーのない公園 (短編24枚)
ピクニックに行こう、と誰かが言った。
誰が言ったかは古川にも江藤にも堀江にもわからなかった。覚えていなかった。下宿生活のかたわら、出どころがわからない資本がちょくちょく吹き出す堀江の部屋で持ち上がった話じゃなかったかと古川は記憶しているが確証はない。
もしかして言い出しっぺは私だったかもしれないとの道中で彼女は繰り返し考えた。二人がけの座席を向かい合わせに、彼女の向かいに座る江藤と堀江もピクニックには乗り気ではないようにみえてくる。
昼過ぎに堀江の部屋で目を覚ました古川はいそいそと、用意をしてよとふたりに言ってきかせた。堀江は覚えのない外出だった。江藤は何も言わずに古川の言いなりになった。
沿線の各駅停車は、まるでじわじわと線路を蝕みながらすすむみみっちい芋虫みたいだった。それでも家々や田園や道路がずるずる動いていく。歩いていけばそれだけでピクニックなのにどうして電車に乗ってまでして遠くに行こうとしているのか堀江にはよくわからなかった。
江藤がスマホをそうそうに出し始めた。
堀江がため息をついた。
江藤にはネット上に彼女がいる。彼女がいるということになっている。堀江は「概念としての」と江藤の彼女につけては何かと鼻につけて江藤をいじる。誰かに恋人ができれば江藤の話を引き合いにする。クラゲというハンドルネームの「概念としての」彼女は江藤に会ったことはない。TwitterのDMとLINEの無料通話越しにしかやりとりをしていない。VRか? ハイテクっ! と堀江は猿のように騒ぎたてた。古川はそれにネカマじゃない? と心配してしまった。若干堀江と同じものも含有していた。江藤にとってクラゲに性別は関係ないらしい。
堀江が
「誰が言い出しっぺだっけ」
ときいて、江藤が
「堀江じゃない?」
とスマホから目を離さないで答えて、
「俺がいうと思うか?」
と堀江はいい返した。
「ないね、たしかに」
「だろ」
堀江はしらけた。
「え、じゃあやっぱわたし?」
古川はいった。
「覚えてないや」
江藤はこたえた。
江藤は昨夜まともに会話が成立していなかった。堀江の家に集まってすぐ酒盛りが始まった。ゼミの愚痴を古川がしていると江藤がベロベロに酔い始めた。江藤は酒が弱かった。滅多に飲まなかった。それでいてクラゲとの通話を二人の前で始めた。堀江と古川は邪魔しないようにゲームを始めた。江藤を風呂場に閉じ込めた。江藤が便器と浴槽が一緒になった浴室でゲラゲラわらった。反響して余計大きく聞こえた。堀江は注意しにゲームを放り投げた。コントローラーがグラスを倒してかち割った。江藤が浴槽で吐いた。スマホは無事だった。古川がガラスを片付けていると堀江が浴室からもらいゲロをした。古川のシャツにまでぶちまけた。そのあとのことを誰も覚えていなかった。堀江は自分が吐いたことを覚えていなかった。江藤は古川が吐いたのは覚えていたが自分が吐いたのは覚えていなかった。古川は自分のシャツが台無しになったことは覚えていた。今日着ていたシャツは無断で堀江から借りたものだった。堀江は気付いていなかった。特に気にしてもいないらしかった。グラスを片付けたのは誰か、誰も覚えていない。
「あ、悪い、電話かけるつもりだ」
三人が記憶を遡ろうとしている最中、江藤が席を立った。
「クラゲちゃん?」
古川がきいたが江藤はもう列車のつなぎ目のドアを開けていた。揺れる足元で踏ん張りながら電話を受け始めている。古川もあきれた。
「あれじゃ怒られるわ」
「誰に」
「車掌さん?」
「あー、あれでセーフっておもってんやろ」
よくやる人いるよねと堀江はいった。
「しょっちゅうじゃん電話」
「なに、妬いてるの」
「いやなんか気持ち悪いなって」
「共依存でしょあんなん」
「お得意の恋愛哲学?」
「おまえそんなんじゃ彼氏作れねえな」
「いや、いらんし」
堀江は拗ねてそっぽをむいた。窓際に座る彼の頬のそばから突き上がってきた雑木林が、野道が、ひらけた田園の光景が古川と向かい合う隣に貼られた大画面の窓を舞台に、下手から上手へ入退場をくりかえす。知らない街並みが続いて二人して見惚れていると、堀江が思い出したように、こっち、あの人住んでるほうか、と突然言い出した。
「阿久津先輩?」
「いや、バイト先の」
「あー、なるほどね」古川の頭にはぽわっとひとり女性が浮かんだ。「行ったことあんの?」
「ねえよ」
「ねえのかよ」
「旦那と鉢合わせたらどうする」
「そういうスリル味わうのかとおもった」
「ハイリスクな真似はしないんで」
「チキン」
「ヒヨッコがなにいってんの」
堀江の女性関係は複雑だ。ハッカーの部屋みたいにタコ足配線の群れみたいだ。コードの海。接続しては切り離す。収拾の付かなくなって絡まったままほったらかしになっているものもある。継続的に作動するシステムのように、堀江は緩く浅く、踏み込まないように、あるいは人によって自分を使い分けて分散させている。
「タコ足チキン」
と古川はいった。
「なにそれ、タコなの?チキンなの?」
「どっちも」
線路が何本か分かれた駅で電車が停車した。
後続の特急に追い越されるのを待ちながら、古川は昨日の授業から持ちっぱなしの大学ノートを取り出し、鶏にタコ足を生やしたものを描いて堀江に見せた。うわキモ。と短く返されたからじゃあ描いてよとペンとノートを堀江に突き出した。
江藤は戻ってこない。
堀江がキープしていた後輩がさ、あの女子大の、うちの大学の近所の、とつぶやきながら、劇画タッチの鶏が屠殺寸前に泣き寝入りする哀愁を漂わせる一枚を描いてくれた。筆圧が強くて次のページにもくっきりあとがついた。古川はインクがもったいないといった。
堀江は無視をした。
「にこしただった」
と堀江はつぶやきの続きをした。
「にこした?」
「ニ、歳、年、下」
「あー」
「酒買わされた」
「酒?その子って」
「未、成、年」
「え、歳は」
「妹と一緒」
「それって酒買わされてんのあんた」
「いや、レジだけ。お金は向こう持ち」
「ふうん。酒欲しいために利用されてるんだ、ださ」
「そうなの?」
「都合の良い先輩じゃん」
江藤が車掌に注意されてホームに降りて電話を続けた。未成年飲酒の片棒を担がれた堀江をなだめるほど古川は人がよくはない。
「お礼もらった?」
「お礼?うーん」
「何、もらってないの?」
「お礼、なのかな」
堀江は肩掛けのベージュの鞄から眼鏡ケースくらいの箱を取り出した。古川の鞄の中ですでにへこんだ常備のコアラのマーチとちがって、原型をとどめているその頑丈な箱は百貨店の地下に売ってそうな贈り物じみていて、リボンが上に下に右に左に十字に巻かれている。堀江はまだ開けていないらしい。
「なにそれ、お菓子?」古川がきくと、わかんないとこたえた。あけてないの? あけてない。あけなよ。なんで。いやあけるもんでしょ。あけちゃうの。あけるでしょ。ここで?古川はため息をした。江藤がホームのベンチでうずくまるように座り、両手で右耳に当てたスマホを掴んで耳をすましている。ときどき風邪でかき消されそうなくらいの小さな声でささやいている。ここからではなにをいっているのかはわからない。口が微かに動いているだけだ。特急はいっこうに横切らない。
「あいつ、なんかやったんかな、キスとか」
堀江は箱で江頭を指した。
「前と変わってないから、まだなんもしてないんじゃない?」
「やったらわかりやすい反応するか」
「教えを破った熱心な宗教家みたいに」
古川の祖母はよくわからない宗教法人に片足を突っ込んでいた。よくわからない、宇宙とかおおきな途方もない話を小さい頃古川にときどき祖母は話して聞かせた。古川の母は自分の母のその話を嫌っていた。祖母ともう会わなくなった。ぼくは大変なことをしてしまった‼ あぁー! って、言いそうじゃん、古川はいった。祖母の家を訪ねた知らない若い男が祖母の前で突然そう叫んだのを思い出した。夏休みのことだった。あれから年上の男が古川はよくわからなくて、何か怖かった。
「エミは彼氏つくらんの」
堀江に古川はきいた。
「製造元による」
「なんだそれ」
古川にはこれっぽいのそういう話はない。別になくていい。あったらいいなこんな彼氏なんてものもない。彼氏がね、彼氏がね、と自慢してくる阿久津先輩が一時期毎晩ノロケ話をしてきたことがあって、それで嫌になったけど、もっとなにか、根源的なところで興味を無くしている。江藤はともかく、ねじ曲がった堀江がときどき色目を向けてくるのを古川は良くは思わなかった。かわすことのスキルを身につけるのにちょうど良いと今になって思うが、正直面倒だった。堀江から学んだスルースキルのおかげで前の前の居酒屋のアルバイト先で、ヤリチンの非正規社員の毒牙をかわすこともできた。両肩に乗ってきたあの掌が、毒を毒で制したこの友人と似たものだと気づかせてきて古川には後味が悪かった。
「製造元、どこがいいの」
堀江がくいさがってきた。
「ナイショ」
「教えろよ〜」
ナイショも何も、何もねえよ。古川は言わなかった。堀江がすり寄ろうとしたところで特急がドンっとビックリさせる音を出して駆け抜けていった。轟音の前に通過を知らせるアナウンスがあっただろうが古川は嫌な感じで聞き逃していた。向かいに座るぬいぐるみを着た男性器は獲物を見定めることで頭がいっぱいだっただろう、と古川は睨んだ。こいつの非常食かもしれない、なんてバカなことも考えた。ほんとうにそうだったら、と考えるというよりかはむしろそうとしか考えられなかった、古川はムカついた。
特急がかき消した静寂が戻ってきた。江藤も戻ってくるかなとホームに目を向けたところで、電車が発車した。
あーあ、とふたりしていいながらホームに残されてしまったことに気づかない江藤が見切れるまで見ていた。
江藤は気付いていなかった。降りるつもりの次のターミナル駅で落ち合うことにした。連絡をすると江藤は次に来る急行に乗ってきて、今度はふたりがおいてかれた。車内でふたりはだんまりだった。なんだか損した気分、と江藤と落ち合って古川はこぼした。
駅のロータリーを囲う店は軒並みシャッターを閉じていて、コンビニだけが角にポツンと残っていた。缶チューハイやらお菓子やら、公園に着いてから食べるものを三人は買った。ロータリの右角から交差点を斜向かいに渡ると河川敷に続く土手のゆるやかな坂道があって、そっちへ三人は歩いた。モンシロチョウが道を横切って生えて間もない草木をかいくぐっていく。
江藤はショートケーキを買った。慎重にコンビニのレジ袋の底の方を掌にのせて運んでいた。堀江はみっともないとわらった。そういう堀江はウィスキーのポケットボトルを昼間から買って胸ポケットに入れては出して飲んで、その都度むせていた。そっちの方がずっとダサい、古川はそう馬鹿にした。
河川敷を見下ろしながら土手を歩いていると冬の枯れ草がのこる原っぱからあたらしい雑草がちらほら少しずつ顔を出していた。野良猫の頭がちらちらみえた。
堀江がまだ女の話を、ウィスキーボトルをくわえながら始めた。
「向こう岸のさ、団地、みえるでしょ」
「酒、我慢できないの?着いてからにしなよ」
古川はいった。堀江は構わずまたぐいっとボトルを傾けた、
「んだよ、古川も買ったんだろ飲めばいいじゃん」
「あんたみたいになるのはヤダね」
「江藤、おいえとぉ、あの団地のよ、どこかの、何階に、あんひとすんでっか」
江藤は堀江から半歩下がった。依然としてショートケーキの入った袋が、彼の空に広げた両掌の上に載っていた。
「なに、ストーカーしてんの」
「ひとぎき、わるいぞ。一緒にすんな」
「どういう意味だ。僕がストーカーだっていうのか?」
「じゃなきゃなんでてめえと同類にされるんだ」
「お前と一緒にしないでくれ」
「そっちこそ! そっちこそしてんじゃねえのかよ」
「はいはい、悪酔はやめな」
土手の切れ目から県道が交差していて、斜向かいの角を奥に行けば目当ての丘がある公園に辿り着く。江藤も堀江も古川も、一言もしゃべらなくなってしまった。四時も過ぎてとっくに着いていたころだろう。明るい芝生にビニールシートを敷いて春の昼間を浴びながらのんびりしようとしていたのに、堀江が気持ち悪くなったと駅のそばまで水を買いに行ってしまって、戻ってくるあいだ、古川と江藤は河川敷の猫と戯れながらあたりさわりのない話をした。
「クラゲさんと会ったことあるんだっけ」
「ないよ」
「どんな人なの?」
「たぶん、さみしがりや」
「たぶんってなに」
「絶対にわかったつもりでいるわけじゃないんだ」
「どういうこと」
「だって、全部わかるとはおもえないじゃん」
「会ったことないもんね」
「急に連絡来なくなることだってありえるし」
「そんなことあったの」
「いまのところ」
「わかることはあるの」
「なにが」
「向こうが楽しんでるなあとか」
「それはわかりやすい人だよ」
「どういうふうに」
「壊れたみたいに笑うの」
「演技かもよ」
「うーん、どっちでもいいかな」
江藤はクラゲのことを何も知らない。きっと知ろうとしていない。ネカマかもしれない。概念として成立してるだけで何もないかもしれない。システムとか、なんか、機械が自動で返してくれてるだけかもしれない。ネクラ大学生の感情を弄んでる暇人かもしれない。どんな表情をしているか、どんな姿勢で彼と言葉を交わしているのか、わからない。江藤には関係ない。言葉と声だけで形成されたネット上のつながりの恋人。
「会いたいって思わない?」
体操座りで膝の下にいる猫を少し開いた膝の間から覗き込んで古川はきいた。
「うーん、思うこともある」
「へえ、意外」
「どこが」
「思うんだって」
「いや、まあ堀江と違ってぼくはがっつかないけどさ」
「童貞って言われるよ」
「童貞だよ」
「やーい童貞」
「ガキかよ」江藤は照れたような、乾いたむかつき方をしていた。嫌悪ではなく反応に困っているんだと古川にはわかった。ほんとうはわかりっこないけど。なんで恥ずかしがるのかわかんない。
「スーパー童貞!」古川はきゃっきゃと笑って枯れ草を蹴散らした。猫が逃げ出した。江藤は古川に処女かきくことなんてしない。堀江なら容赦なくきいてくるだろう。江藤の抱きかかえていた小さな黒猫は頭を低くしてそれを見ていた。やけに人懐っこい猫たちだと古川は思った。動物に好かれるタチではない彼女でさえ、一、二匹またそばへ寄ってくる。
「会いに行かないの」
「うーん」江藤が空を見上げた。空がひとつひとつ江藤を見下していた。「めんどくさい」
えー、と古川は口をあんぐりした。猫が飛び込んできて噴き出した。草の粉を口に含んでしまった。
「だってさ、終わっちゃうじゃんか」
空がひとつひとつ雲でちぎれていた。
堀江が公園に着いてからビニールシートなんて持ってきていないといいだした。準備してっていったじゃんかと古川はキレた。おまけに芝生はハゲ散らかされていて砂地が剥き出していた。
砂地にしゃがみ込むなり、古川は潰れたコアラのマーチをあけた。筒型の箱をふたりにつき出すと枯れ草を引っこ抜いていた堀江が、手洗ったんかよ、と文句を言う。猫触ってたろ、さっき。江藤にコアラのマーチを任せて水飲み場の蛇口をひねりに行ったがびくともしなかった。上から見ればコの字に並んだ遊具の配置を経由して反対側の入り口側にある、電話ボックスみたいに細長いトイレに交代で入った。遊具は錆びついたり黄色のテープが巻かれたりしてきた。ブランコの鎖が柱の方へ括られていて乗れなかった。すべり台は台が上がるまでの梯子の段がぐるぐるに紐が巻かれていて足をおけず、てっぺんもでたらめに使用禁止のテープが貼られていた。砂場の囲いも崩されていたり青色の硬いビニールシートが被せられていた。何もされていないのは江藤がもたれている鉄棒だけだ。江藤はケーキを食べていた。
風が冷たくなってきた。
堀江が出てくるのを待たずに戻って、チューハイをカパっとあけた。泡がどろどろと吹き出した。歩き回ったせいだろう。手が濡れてひと口ふた口あおるのを堀江がトイレから顔を出して見ていて、そのまま彼に渡してまた古川はトイレに手を洗いに戻った。
「飲んでいい?」
堀江は聞いてるそばから口に寄せていた。
「だめ!」ぴしゃりと古川は答えた。
堀江は苦笑してこっそりそのまま少しだけ飲んでしまった。彼のシャツを古川がきているのにまだ気づかない。
「昔付き合ってた子でさ、してはくれないんだけど、間接キスは許してくれた子がいてさ」
「ねえ、堀江、デリカシーないの?」
「え?」
「なんでそういうこと平気で話せるの?」
「別にいいでしょ、そんなドロドロした話じゃないし」
「いや、そういう問題じゃない」
「やだった?」
「友達の昔の女の子の話って、正直どうでもいいかな」
「ふうん」
「てか返してよチューハイ」
堀江にからかわれている、古川は取り返したチューハイの残りを、缶に口をつけずに一気に飲み干した。すこし口を外して喉を滑った。そのまま缶を握りつぶした。こわいこわいと堀江はブランコの方へ逃げていった。江藤はまだクラゲとレス合戦を繰り広げているらしく、さっき一悶着した堀江を見向きもしない。コアラのマーチを左手に、スマホを右手にずっと鉄棒にもたれている。
夕日がゴワッとさっきより曇り空にのびてきて、堀江がきたねえのそれをみて、くしゃみをした。あんたのほうがよっぽどきたないというと古川はぽかぽかしてきた。度数3%のチューハイで頭がガンガンしてきた。
「そういえばこの公園シーソーねえな」
堀江がカニ歩きをしながらそう言うから古川はよくわからず噴きだした。
土手道を歩くと街灯がポツリポツリつき始めた。半分くらい歩くとまた暗くなり、川の対岸の、車通りの多い県道沿いに橙色の街灯が等間隔に並び始めて、それが川の水面に反射してゆらめいていた。
堀江はあの未成年飲酒の片棒を担がせてきた後輩の話題をポツリポツリはじめた。
古川は酔いを風でさますのが心地よくてききながした。堀江が無関心に対して文句は言ってこない。
江藤はさっさと一番前を黙って進む。堀江がなんでそんなに急ぐのかをきくと、充電がきれたという。土手道に街灯はほとんどなく、対岸のわずかな灯りを頼りに歩いているようなものだった。
帰りの電車に乗ろうと駅に着くと沿線の乗り換えだらけの大きな駅で人身事故があったとかで遅延が起きていた。本数も減っているらしい。
「勝手に死ぬなよ」
と堀江はいった。
「自殺とは限らないでしょ」
と江藤はいった。
もう七時を回っていた。帰宅ラッシュの最中にあったらしくてもう一、二時間はこの状況らしい。夕飯食べていくことになり、駅近にはコンビニしかないからすこし外れたところまで行くことにした。
「ラーメン屋あるみたい」
また先頭を歩いている江藤が言った。
駅のロータリーとは反対側に住宅地に埋もれる雑居ビルの一階に「萬味亭」という赤い縁取りのされた店名が目に入った。二階の住居の、真っ赤なカーテンが外れかけた部屋の窓から目の細いパーマをくしゃくしゃにした豊満な女が古川を睨んできた。食べないで早く帰りたくなった。
中華料理屋らしいが、蕎麦やうどんもありそうな黒い青色の暖簾が垂れていてどこか看板の赤と似合わない。内装も特に赤く染めたわけでもなく、けれど年月の蓄積に満ちていた。床が盛り上がったりすこし斜めっていて、テーブル席が並べれるだけ並んでいたからすでにいる二組の客の背もたれにかっつけたりしながら店内の奥に通された。椅子と机はみんな違うもので、三人の使う机だけ丸机だった。囲うように座ると堀江の背もたれが常連客のつかっている机にときどき当たった。狭い店だから仕方ないと堀江が呟くと常連が彼を睨んだ。古川はそれを見ていた。常連の中年と目があった。楊枝を口に差し入れていた。さっきの上の階の女と同じような細い目をしていた。ラジオが流れていた。テレビも流れていた。テレビは野球のナイターの実況中継だった。ラジオでは歌謡曲が流れていた。テレビからの音はしなかった。けれど歌い終えるたびに聞こえるような拍手がした。堀江は水の音だといった。江藤は歌謡曲からだろといった。上の階の足音が定期的に聞こえた。
お冷といっしょにきたメニューを三人で覗き込むように見た。文字がひっくり返ってしまっている堀江は目玉の上下を変えるからちょっと待ってと目を擦った。脳みそラーメンというよくわからないラーメンが真ん中に書かれていた。写真は一つもない。
「堀江、これたのんでみてよ」
古川はいった。
「なんでだよ、おまえ頼めよ」
「本物の脳みそで味作ってるかもしんないよ」と江藤はいった。
カウンター越しの厨房にいる店員の婆さんに三人は目を向けた。野球中継に釘付けで口を開けたままグラスを拭いている。
「なわけあるかよ」
堀江はいった。
「ためしてみてよ、チキン」
古川はいった。
注文をすると厨房の見えないところからにょっとコックのおじいさんが現れて、それにばあさんが「脳みそいっちょ!」と声かけするから堀江はお冷を噴いた。
ごく普通の味噌ラーメンが堀江の分で届いた。江藤は塩ラーメンにネギ多めというメニューにないトッピングの注文までした。ネギは炙られていて香ばしい匂いをムワッと漂わせてきた。
「なんでエミはチャーハン?」
「いいでしょ別に」
「おこちゃまなんか?」
「あのね、中華屋さんの炒飯は美味しいんだよ、どっかのバカと違って」
堀江は自炊と称してよくふたりに炒飯を振る舞うがベトベトで油濃かった。
「わるかったなあ」脳みそラーメンを堀江は一口啜った。スープも飲んだ。辛い辛いと喚き出してお冷を飲み干した。「炒飯くれよ」
「やだよ、遠藤からネギもらいん」
「いや、ネギも辛いだろ」
「このネギ辛くないよ」江藤は答えた。
カウンターの向こうで婆さんがネギ追加! といきなり叫んだ。にゅうっとまたじいさんがあらわれて天井からネギを取り出して物凄い速さで切り刻んで中華鍋に転がした。その中華鍋ごと婆さんがこちら持ってきて堀江の頼んだ脳みそラーメンにドボドボそそいできた。「このネギ辛くないよ、体いいにいいよ、食べてってね、辛くないから」と片言で婆さんは言ってカウンターに戻っていった。グラスをまた拭き始めた。
特急列車が止まらないらしいから、だらだらホームの乾いたベンチで並んで座って普通列車が来るのを待った。静かさをかき消したくなって古川はふたりの男友達に、あたりさわりのない、くだらない、つまらない話をした。世紀末の話だとか、陰謀論だとか、おばあちゃんに昔きかされた宇宙の話だとか、江藤のすきな声優の黒い噂だとか、堀江が大学ではなんて言われてるのかとか、近所の床屋に行ったらマスターの趣味で手製の箸をもらったとか、昔すきだった子がもう子供がいるとか……――
各駅停車に座れて江藤は、いまさらゲップをした。堀江が食べきれなかった脳みそラーメンの残りも食べたからだ。やだあきたないと古川がわらうと堀江もつられたようにゲップの真似事をしたが、りきんでかわりに屁がでた。
「なんでいつもこうなの」
ふざけた堀江は古川にくしゃくしゃに笑ってみせた。
「運命を呪うんだな」
「そんな運命たちきったる」古川は笑いながら答えた。
江藤がそれから寝てしまい、降りる駅でも起きなくて三人揃って乗り換えをし損ねた。
(了)
*本作は織田作之助青春賞おっとこちた小説です。2次おちでした。あちゃぱー(おぺんぺん大学運営主)