おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

便器と鼻うがいと吐くほどの煙(一人暮らし3ヶ月目の所感)

 ひとり暮らしを始めて、ついてしまった生活の癖のひとつにトイレをしながら歯を磨くということである。一種の時短のように聴こえはいいが、私の住まいの間取りが関係している。まあ排水設備の関係上、洗面所とトイレが近いなんて決まりきったことだがトイレの戸が来る前に洗面所が視界に入る。ノブを掴む前に歯磨き粉が掴めるのだ。いまこのテクストの前半を帰省した実家のトイレで書き始めたが、脱糞をかましながら口内を磨くというのは奇怪なダブルタスクだが、まるで連結した一つの工場のラインのように整合性の取れた作業と化すなら優しい者だが、言うまでもなくどちらかが疎かになるのは目に見えている。屁をすることをどこか無意識のうちに家の外で我慢してしまうことが社会人になって増えた気がするが、これが自室までに追いついてきて、途端にこれが屁なのか今まさにという間の便意なのか判別がつかず、とりあえず便所へ駆け込むなどというこの歳に沿わない有様である。屁が弱々しくはみ出れば安堵するが、だばだばと社会然とした責任に腹を悩ませば途端に決壊する場合には、脆弱な臓物がずきずき憎い。ともあれ屁が間抜けに噴き出しただけでは笑うが、まてよと思い返してこれは実に危うい、ある種の幼児退行なるものではないのか、いわば御不浄というものは生来人々が成していく実に個人的な体験のうち、幼少より極めてゆく普遍的な行為であり、それが人間の尊厳の最低限のマナーとして確立されている、いわば常識の範囲内の事柄である。ビルがお天道様に突き出るおっかない街のど真ん中で、路上めがけて一発仕込む輩はいない。とはいえ屁は屁である。不可抗力である。祖父やその年頃の人間になっていくと、長年の苦労と経験の賜物か、たかが屁を吹くことになんら恥じらいも周囲の目もへっちゃら(屁っちゃら)なのか、どこだろうが構わず軽快な音声を鳴らすものだが、何故私のような小童は恐れることがあろうか、確かに笑われてしまうのはともかくとして、我慢することかと首を傾げる。いわゆる幼児期に親が心底手を焼いたであろうトイレトレーニングなるものが、あるときを境にひとつまたひとつと何か別の問題となって再来しているのではなかろうかと言う不安があるのである。これは年頃の子供たちが自尊心のために学校にいる間は大便に行かぬようなものに近いのだろうか。この問題は身体的構造上、不健康だという指摘もあるが、たったひとつの生理的行動が以後の学習生活における著しい弊害であるいじめに発展するなんぞというのは実に子供が考えることなんぞ愚かで純情だ。排泄物に対しての著しい潔癖感を保つことができる、これを最低限の自分たちの水準としているのだ。一般にもそうだが、大便のことなんぞをクソなどと言い換えるよりも、酷い有様、状況に対してクソと吐き棄ててその語彙に「見立て」を与える場合が多い現代において、口から「うんこー、うんこー、うんこー」と言っていた大学の同級生は素晴らしく爽やかに見えた。彼の場合は土地の方言で実質クソの見立てと同じニュアンスなのだが、クソが発生するというのはエントロピー増大の法則における物体の最終到達地点のひとつの例であって、あるいはミハイル・バフチンラブレー論で取り上げたとかいうグロテスク・リアリズムにも話を伸ばせるだろう。(このラブレー論は未読だが、それに接近した創作論を展開した大江健三郎「小説の方法」という本がある)クソリアリズムという言葉と同義なのか一時期考えた頃もあった。この語句をどこで見聞きしたかといえばアニメ「星のカービィ」である。

https://youtu.be/ltVRAwPm64k

 デデデ大王プププランドの広場で行われた写生大会、そしてその展覧会を台無しにしたあと、美術館を立ち上げ、自らの力作を国民に知らしめたさい、カービィなどの一部キャラクターが脱糞する姿をゆらめくタッチで記している。これをデデデ大王は「クソリアリズム」と称していたが、上級国民の上級国民特有の超越性、あるいは投企性は裸の王様に代表されるように滑稽じみた戯画を浮き彫りにするものだ。これは常田大輝がクソだとかゴミだとかカスだとか自分のことを過小評価する彼の芸術性とは雲泥の差であり、見立てとして扱われる「クソ」をデデデ大王は飛び抜けてしまった。「クソ」は「口から出される=発話される」ものではなく、「尻の穴からだされるもの」というリアリズムを持ち寄って現実に近づくアプローチをとったのだ。

https://youtu.be/8QW7WBTzklE

 と、まあ少々生理的な話をつらつら脱線して書き出しに始めた訳だが、屁と便意の判別がつかないというのは物事の分別がつかないことなのか、屁をところ構わず吹くものに物事の分別がついているのかわからぬが、幼少の頃から悩まされてきた生理的な事柄において、季節系の鼻炎である。

 このいまはじまった段落から書き出している分でもうゴールデンウィーク後の最初の土日なので、もう一週間は経つのだが、4月29日から突然として鼻水が止まらなくなり、翌日から二日間の出勤では何度も鼻をかむハメになった。風邪かとうとうと慄いたが熱はなく、しかし喉もやや詰まりげな覚えがある。とうとうなったか?と不安になりながらも夕方日が沈みかけの中実家に帰省した。帰省と言っても県内の移動だし下道で1時間ほどで着いてしまう。それからの三日間鼻水が止まらなかった。だんだんだるくもなるし、引越して間もないころにゴールデンウィークの帰省では部屋を片付けると言う話をしていたにも関わらず、結局のところ不要な溜まった書類を紐で結ぶので精一杯だった。読書も4、5冊半は持っていったのに読めたのはウィリアム・ブレイクの詩集のみである。5月4日に某大手S薬局にて症状を常勤されている医者(なのかわからんが)に季節性の鼻炎、まあいわゆる寒暖差アレルギーによる鼻の炎症だと指摘され、風邪薬ではなく鼻炎にかかわる薬と鼻うがいなるものを勧められた。鼻うがいといえば今田耕司が出演しているCMでお馴染みのアレである。片方の穴に器具を差し込み、注入した洗浄液が鼻の奥に伝わり逆の鼻の穴から垂れていく衝撃的な映像を実家の茶の間で見たことがある。

https://youtu.be/Sqk2NT4zBag

 実際にやってみるとこれがおかしくってならない。軌道を確保するためか鼻に差し込んで溶液を押し込む際、「あ〜〜」と発話しないといけないのだが、これがまたマヌケな感じがして笑えてくるのだ。愉快。「あ〜〜」と言ってる間に口の奥からしょっぱいものが垂れ込んできて突っ込んでいない方の穴からと一緒にダバダバと溶液が垂れてくるのである。だんだんとその溶液は鼻水を引き連れていくので体外に排出されるとそれらの老廃物を尾に巻きつけてゆく。わたしはひととおり二つの穴に施しを終えるとティッシューを二、三枚摘んで鼻を拭くついでにちぃーーっとかむ。すると鼻の奥にいたドン達がその輪郭を曝け出してくるのである。喉の不快感というのは結局は鼻水が喉までに垂れているから、そうS薬局の医者は言っていたが、なるほど鼻炎薬と併用してこれらの施しを行うとみるみる喉の痛みが失せた。痰もでなくなったし、だるさも消え失せたのである。これがコロナであれば困ったものだが、コロナなのかわからんが、咳は出ないし、猛烈な痛みのようなものを身体中に感じたり、肺が痛むような思いもない。やはり毎年恒例の鼻炎だったらしい。ただ今年はややシガーに手をつけすぎたかもしれん。研修先の同じ教室の受講仲間の何人かが毎時間喫煙所に集まるベビースモーカーがいて、週に一度シガーな私がみるみるうちに紫煙に身を絡ませるマネの面白さを覚えてしまった。成人もとっくに過ぎているし、あとは荒むか花咲くか知らぬ凡庸な一般男性とするなら、健康志向を意識して嫌煙すべきという意見もあるだろうが、近年、いや往年の問題である喫煙者と非喫煙者、もっといえば嫌煙家による喫煙者への迫害行為なんぞは一種のレイシズムさえ覚えている私なので、とはいえ両者の言い分を聞いてみたいという実に自由主義的な前景を言い訳にしてシガーいてこます。筒井康隆の「最後の喫煙者」のようなディストピアな形に今後ならなからばいいのだが、喫煙者の集まりというのには、どこか喫煙行為に対する後ろめたさというか、ワルというか、なにかそうしたものを共有する、共犯関係というか、そうした連帯がある。オタクくんがカードゲームショップに入り浸るよりもなぜか絵になる。それは往年の喫煙のイメージが映画などの映像媒体のフィクションに刷り込まれてきたからなのだろう。

 私に煙草を教えた大学時代の人間とはもうやりとりができないだろうが失恋の勢いで煙草を吸うともうやめられないと言われたが、私が今なぜシガーをかますのかそうした連帯の状況を興味深くみえたからだろう。これが休日の、近隣に誰も知り合いがいない天涯孤独の一人暮らしをかましている街で、コンビニまで歩いてそこの喫煙スペースでかますシガーとは大違いなのだ。今度の水曜でこの研修が一応終わってしまうのだが、私はこの先そうした連帯をどこかで抱けるのかわからない。愛煙家の彼女なんてできたら素敵かしらなんて夢みがちな乙男みたいな野暮な妄想はおいておいて、少し前にジッポライターを買わされ、まんまと縁を切られたヒモみたいな女のことを思い出した。やっぱり私はどうにも人間不信のきらいがどこかまだまだ抜け切れていないらしいので、恋愛とかいうピンク色の世界はもうしばらく休業しておこうと考えるのであった。

 部屋でしてしまったらもうおしまいなので、わざわざコンビニまで歩きに行く。気晴らしにもなるので良い。来週から会社に戻れるが、本数は先週よりうんと減るだろう。今夜も上の階の人間の弾けた笑い声が突然響く。