おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

わたしに残された特別な時間の終わり(2ヶ月ひとり暮らし総括)

 軒下からピアノ線!!!と言いたげなもったいぶらない朝があるが、わたしはこのごろ6時きっかりに目が覚める体になった。なぜかはわからない。体内時計とかいうものかしらん?知らぬ。アラームで6時に起床していた習慣はとうの昔にすぎて、大学時代のおよそ半分は7時と8時の狭間で目が覚めて、実家暮らしだったから親が出勤するかしないかでリビングに現れるので良い目をされなかった。もっと早く起きてこいとよく言われたものだが、早く起きたって支度で右往左往する親や妹の、洗面所やトイレの邪魔をしては結局のところほとぼりが冷めるまでの間、布団に居残っていたほうが双方に良い。とはいえ朝に弱いわけではなく強すぎるわけではなく、だったらリビングやらトイレやら洗面のために現れず、自室で朝読書やら英語の勉強でも少し齧って、空いてからすらすらと階下に下りて自分の番を滞りなく行えば時間も有意義に扱えたのだろうが、億劫な人間なのでその習慣はとうとうできぬままだった。そんな暮らしをたしか二限から場合によっては三限からの授業ばかりをとっていた大学二年から三年を過ごした。まだ大学に行けただけ良い。三年の後期になっていくとあらかた取りたい授業も無くなってしまう。のんびりした堕落した生活の始まりである。大学入試のために、夜更かしができぬからと22時には就寝し、朝3時に起きて勉強をしていた高3の頃のわたしは大変偉い。めちゃくちゃ偉い。すげえ偉い。そう今でもあの頃を思い出すとあの頃を超えることはできないとまだ22なのにそう感じる。とはいえ結局6時に起きてしまう。もう少しでわたしは勤めに行く身分を幸なことに与えられ、晴れて社会人にズブズブと足を踏み入れていくわけなのだが、案外この6時起きは好都合である。このまま習慣化し続けてくれれば良い。おまけに勉強を軽くでも良いから毎日できたらなおよし!とはいえ大学や高校時代と違い、実家で暮らしているわけではない。生活は自ら回していく。朝食は大学の頃からすでに並んであるものを適当に摂っていたが、いまでは調達しなくてはならないし、毎日とまでは行かぬとも洗濯物を干さねばなるまい。三日に一度ないしは四日、天候とフムフムと相談し、やむを得ない場合は部屋干しをかます

 そうした感じでかれこれふた月にそろそろこのような、ひとり暮らしをこなしてきたものだが、案外やってみればなんとかなる、最低限の生活水準があるらしい。作り置きをして誤魔化してはいるが毎日自炊はしているし、晴れた日を狙い目に定期的に掃除もするし、ゴミ出しも恥ずかしくない量になればしっかりと出すようにしている。

 しかしこの2ヶ月と言うのはまだ大学生という肩書きがあり、というか卒論も終了し、卒業という終わりが約束された状態で、まるで岡田利規のあの戯曲(であり小説)の「わたしたちに許された特別な時間の終わり」際であった。

この表現がわたしは大変好みで、この一年は何度も反復したものだが、実際読んだのは昨年の秋で、失恋、というかなんか良い感じの都合のいい仲の子に一方的に関係を切られて5年ぶりくらいに落ち込んで病んでどうしようもなくなって頼った友達と服や靴を買いに行った日に、たまたまその集合する前に行ったブックオフで買ったときである。わたしはそれまでその戯曲を大学の嫌いな講師が授業で扱っていたり、あるいは保坂和志の小説論で紹介されたりして、純粋に読んでみたかった作品だっただけあって、中古でしかもう出回ってない故(注:戯曲版だったらたしか白水社の新装版がある)ずっと探していた。棚でばったり出会った時、「そうやね、もう特別な時間、終わるね」なんて声をかけて意気投合してルンルンとレジに連れて行ったものだ。友人と集合するのに一悶着があり、そのかわりにスタバで奢ってもらったんだかどうだったあって、買った本を見せびらかしたら、そのうちのひとりが戯曲のゼミにいたからその作品を知っていた。DVDで見たらしい。羨ましい。

 確かこの時に、半年遅れの誕生日プレゼントをいただいた。Tame Impalaのアルバム、「Currents」それから「Innerspeaker」である。Amazonギフトで送ってくれる話だったが、設定ができてなくって、贈り主の自宅に届いてしまって、それを渡すことをその集まりの日は兼ねていた。いまこの段落を書いている間に「Currents」の「Let It Happen」を聞いていて、それで思い出した。不思議な偶然だ。Tame Impalaは田舎のTSUTAYAにはレンタルで置いてなくて、仕方なく音源を買おうとしていたがなぜかCDで物質として確保していたい気持ちもあって、かと言って出費として払うにはなぜか手が伸びなかったから、その子に誕生日プレゼント何がいい?って連絡をもらって即答したんだった。すっかりでも忘れていた。

 すぐには読めない本だとは感じていた。

 その集まりで諸々それぞれの欲しいものがロフトだとかABCマートとかで済んで、ZARAを覗いてあー、またメンズ服が追いやられてるわ、え?もうほとんどないじゃん、笑いながら見て、それから休憩に向かったコメダ喫茶でコーヒーを啜りながらメンバーのひとりの卒業制作について意見を出し合うことになった。私と国文の友人は貴重な喫煙可の喫茶店紫煙を燻らせながら、同じように指先に煙を吐き出すものを挟み込む他のテーブルの客に色目を使いながらタバコが苦手な相談相手のレジュメに目を通していた。ヤニクラを起こしながらも煙で燻すようにコーヒーカップの中に煙を吹き出して飲んだ。たしか国文くんからキャスターの赤色をもらったんだかよく覚えていないが、とてもガンっと来てしまい、レジュメの文字が揺れて見えていた。国文くんが読んでいる間に手持ち無沙汰な私はそこで「わたしたちに許された特別な時間の終わり」の収録作「三月の5日間」の冒頭部分を読んでみた。そしてすぐ、これは簡単には読めないなと思い、すぐ閉じた。私はニヤニヤしていたと思う。

 小説版「三月の5日間」は地下鉄だったかの電車内から始まる。乗客の視点を語りは滑り、掠め取るように描いていく。視点を乗り移るという異様さを覚えるはずが、字面だけ追っていくとその奇妙さに一瞬気づかないかもしれない。舞台版だとたしか2人の男が体を揺らしながら話し合い、六本木だったかのライブハウスに向かい、それからなんちゃら…という概要が彼らの伝聞から彼らの視点、彼ら自身という2人に凝縮された出来事の捉え方をされていたと思う(これは嫌いだった講師の授業で見たdvd)

 ぼんやりとラブホテルに5日間も居座って、ひたすらまぐわっていたら飽きてしまいそうだが、もちろんそんなことも書かれていた気がする。半日おおきなベッドで横たわって映画を見て、ムードを作って、それなりに動けば2回目でもううんざりしてくる。こうしたホテルの業界の話によれば近年はさっさとするだけして帰る場合が多いらしい。コロナ禍ということもあるだろうけれども。この年の夏に一度半日いた時は5回か6回くらい停電した。暑さのせいか整備がおかしいのか知らないがしょっちゅうエアコンは止まり、テレビが消え、見ていた映画が寸断され、いちいち初めから再生しないといけなかった。精算機のクレジット計が使えず、お金を相手に払ってもらった。まあもうその人とは会うことはないのだが。

 カネコアヤノの曲「Home Alone」で、「この暮らしにも、ようやく慣れてきた」って歌詞があるけど、慣れてきてはいるが時々猛烈な虚無感に襲われる。四月から仕事が毎日あるような日々になればそんな余裕さえないのだろうけど、それは漠然とした不安、つまりは状況の変化に適応できるかだったり、経済状況、現時点の生活水準をキープできるか、自分がだんだん仕事に呑まれるのか、自分が感じる心地の良い自由がよくわからないなどなど…… そうしたものに思考が粘着質になってくると塞ぎ込んでしまい部屋から出られなくなるから強制的に買い物とか散歩に出掛けてみたりした。「行き場のない花束のために」という出かける理由をカネコアヤノは載せているが、次の節で「いつもどおりだよ/外に出てみる/せっかくの休みでも/君がいないと暇だ/ポケットにいれたよ 刺激と安心/大丈夫な気がしてる」とあることから、浪費という嗜みが安楽をもたらすことを歌っているように、私はみえる。今日だって水道の支払いを行くのと提出書類のためにコピー機を使うためにコンビニに向かったが、わざわざ一度に行けば済む用事を持ち物を忘れて二度行くハメになったのも、もしかしたら無意識的に出かける理由を作っているのかもしれない。おまけに二度目に至ってはそのあとスーパーにも寄ってキャベツやら野菜やらを買っている。財布を持って出かけなければいいのだが、浪費というよりかはこの場合生活に必要な蓄えと言ったものだ。ともあれ浪費といえばバイトの帰りに寄れるところにブックオフがあったせいでよく散財していたが、あれを浪費と考えてしまうのか、わたしは積読という娯楽の貯蓄をしていたと考えているから、一種の投資に違いない。嵩張るけどあれだけの本が蔵書として積み上がってしまえば、一冊をいちにちで読み終えたとしても4、5年かかるのではないだろうか。とてもそんなことができる本ばかりではないし、全集とかならひょっとしたら一冊半月以上はかかってしまうだろう。わたしは浪費をしたことがあるのか、と不安になる。果物、スーパーのバターマーガリン、チーズ、調味料のコーナーにある創味シャンタンの缶、アイスクリーム、12個しか入っていない冷凍餃子、グラノーラの800g、ビール、料理酒、どれを取っても高く見えてしまい、手が伸びなくなる。意味のない倹約癖だが、高いチーズを買わなくても料理は作れるし、アイスを食べるったって風呂上がりにしてしまうと体が冷めてしまいそうだし、そんなに必要としてないなってどうでも良くなってしまう。

 わたしは多分この特別な時間みたいなものに囚われていて、いきなり裁断機で切り落とされるように、終わってしまうのが嫌で嫌で仕方ないのだろう。できればダラダラと許され続けて欲しいと思っている節がある。けどもう終わってしまうのだ、終わってしまったのだ……