おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

セッターの伊藤

 

 

 ばるむんくヨシオくんはどんな女子がタイプときかれて男殴ってそうな女と答えた。ぼくらは彼には被虐癖があるのかと疑ったが、彼が暴力の世界に足を踏み入れているとは思えない。温厚なばるむんくヨシオくんがそんな趣味を持っているなんてしーしゃキヨコちゃんが知ったら鼻血を出して白目を剥いておしっこを漏らすに違いない。小学生の頃、2時間目を受けた後に待ち受ける長い休憩時間に雨のせいで外に出られない男児女児がカーテンの中に潜り込んで話したことはいずれ時が流れて覚えているものではない。だがセッターの伊藤とのちにあだ名されるこの頃からヤンチャだったキョウヘイはばるむんくヨシオくんが放った男殴ってそうな女の子という表現がいままさに目の前に現前した、そのときにあの肉まんのような、あるいはビーバーのような温厚なばるむんくヨシオくんの表情を思い出すのだった。

 

 室外機が所狭しと壁に引っかけられ、ダクトが蛇の群れのように行き交う路地裏にキョウヘイはセッターを一箱吸うまで出られない呪いをちょろまかした友達の彼女である占い師にかけられていた。この路地裏はおもに表にあるキャバレーや飲み屋からあぶれた頭を冷やしたいどうしようもない奴が流れてくる卑小な街の片隅の憩いの場に数えられる。この飲み屋の店長がセッターの伊藤のパトロンで灰皿は犬の餌を入れるプラスチック製のカップだった。セッターの煙は向かい合った室外機の群れに霧散され、キョウヘイはそのかき消される煙の筋を虚しく眺めていた。この通りでよく尺八をしている身体の太い樽のような男女を見かけることがあるが今夜は幸いそれらしき怪しいそぶりをするものは一人もいない。溝の排水にたまに刻んだネギが流れてくるばかりで特に珍しいこともなかった。パトロンは休憩に飛びだしたセッターの伊藤がまさかあの占い師に呪われていることも知らずに猫の額ほどの窓から覗き込んで手招いている。戻ってこないとお前で唐揚げを作るぞと言っているのだ。占い師は大学を中退してタロット占いで生計を立てていてセッターの伊藤の高校時代まで一緒だったじんばにヒデユキが大学に入学した時に知り合って寝た女だ。ばるむんくヨシオくんが男殴ってそうな女と答えたあのとき、じんばにヒデユキは小学生らしからぬ生々しい嗜好を吐いたと記憶しているが不思議なことにキョウヘイには何故かよく覚えていなかった、それほどじんばにヒデユキの今の彼女の占い師が特異だった。このことを今日シフトに入る前、じんばにヒデユキに紹介された。彼らの性生活において魔法陣を模したシーツが性交渉には必須であり、剃刀や果物ナイフでも何でも構わないがとにかく刃物で互いの肌のいずれかに傷をつけ、垂れた血をたがいの性器と口に塗るのだという。それを馬鹿にしたキョウヘイとつるんでいるヒップホッパーの友人とセッターの呪いをかけられた。キョウヘイの頭にはその儀式めいた性行為よりも突然去来した、ばるむんくヨシオくんの言った「男殴ってそうな女」とはどんな女だということにずっと囚われていたが、友人は占い師の言うことに耳も傾けずとっととこの街から飛び出した。そして血まみれになってぶっ倒れて死んだ。

 

 吸い潰したタバコを踏みつけ揉み消し、ツイッターで千葉雅也にブロックされてしまったことを確認すると路地の付け根から赤い服を着た女がひょろひょろと現れた。ヘルメットのようなボブカットをしてキャミソールを赤黒く塗ったその服一枚の女はながい足を交互にキョウヘイの方へ進めるたびに裾から陰部のタトゥーが見え隠れした。キョウヘイはギョッとして慌てて腰を引いたがその女の切り揃えられた前髪の下にある瞳は困惑の男の表情を余すことなく捉えていた。獲物を見定めるというよりかは、すでに獲物を自らの手に捕らえたと言わんばかりにその女は俯きざまに微笑み、キョウヘイにねえお兄さんと猫をあやすような口ぶりで声をかけた。

「ねえお兄さん、なあにしてるの?」

「廊下に立たされてるんだ」

「宿題でも忘れちゃったの?」

「どんと大きな宿題さ」

「へぇ〜、お姉さん手伝ってあげようか」

「人手があっても足りないくらいの量さ!」

 キョウヘイの声は裏返った。テンションが狂っていた。トーンなどという声の質をあれこれ変えてニュアンスに乗せようとする自身の癖はうまく機能していない。その女は生臭かったのだ。生ゴミの収集場に漬物にされていたのかというほど、などではなく、いままさに血潮の雨を浴びてきたばかりに、いわば生物を蹴散らしてきたばかりという匂いだった。いかにも生物的な、生々しい匂いだ。よく見ればキャミソールのようなワンピースのようなこの薄着一枚はホンモノのキャミソールであり、その赤は返り血を浴びたようにしか見えない、というかたっぷり他人の血を汲んだ浴槽に飛び込んできたんじゃないか?キョウヘイはガクガクと震えているのは自分だと気づかなかった。地震? え? 地震? 揺れてます? とこの女に聞いていた。女は? やだ、揺れてるの?やだ、怖いお兄さん、バカにしないでよ、と腕を掴まれて揺すられた。

「ねえお兄さん!私とどっか別のところ行かない?」

「…た、た、た、た、たたたたたたたたたたたたとえばばばばば」

「えいがかかかかかかかんとか」

「ぇぇええええええええいぃぃが?」

「かん」

「おん」

「はん」

「な?」

「やだ?」

「いや」

 もうすでにレイトショーも終わりがけの時間に過ぎない気がする、そうとも考えられる思考をこのキョウヘイは持ち合わせていない。だいたい近場にはなく、この掃き溜めのような歓楽街を抜け、川を渡り、住宅街を縦に割るように進み、さらに丘を越えた郊外に大手商業施設に寄生した映画館しかない。車もないしタクシーを呼ぶ手立てもその金もない、おまけにセッターの呪いにかけられているキョウヘイに映画に行くという選択肢はない。

「えええええいが、映画館こんなとこにあったかな」

「あるわよ、私ん家の向かい、映画館なの」

「きききき君ん家、この辺なの?少なくともこの辺りの、この区画なの?」

「なんで?なわけないじゃん、こんな掃き溜めで生活できますか、もっと良いところ、住んでるわよ」

「じゃじゃじゃじゃじゃ、こここここここから動くわけ?」その姿でかい?キョウヘイは18本目のセッターを吸い始めた。

 もうヤニクラで頭は回っていないし、漏らしては乾くを繰り返しているせいでズボンの中身はひんやりしている。なぜ瞬時に乾いているか初めのうちはわからなかったが室外機の生暖かい風が路地裏を無数に行き交い、独特の空気の通り道が出来上がり、すぐさま乾くらしかった。

 キョウヘイは自身のペニスがタバコと鮮血で役に立たずにただ放尿し続けているのをこの女に知られてしまうのがもはやどうでもよかった。女はあまり気にしていないらしい。たしかに時々彼の足元から膝下、そして股の付け根に目を走らせていたが女はその都度小さく微笑んだ。

「すまないが、あと3本、タバコを吸ってからでいいか」

「なんでよ」女は苦笑した。作り笑いだ。きっと心の内ではーもっともこの女に心があるのかどうとかは別とするべきだがーチンタラしている男をさっさとしばき倒して切り刻んで港に投げ捨てたくなっているに違いない。

「このセッター、吸い切らないとこの区画から出られない呪いにかけられているんだ」

「はぁ、なによ、流行りのアニメ?」

「いや、本当なんだよ、友達の彼女がさ、占い師?やってんだよ、そいつを馬鹿にしたらさ、呪いかけられちゃった」

「でまかせでしょ」

「いやあの一緒にからかったやつがさ、タバコ吸えなくてさ、んで門限あるから帰るって行って走り出してさ、輪切り橋ってあるじゃん、この先のさ」

「うん」この路地の表、歓楽の店がひしめき合う通りの果てに、この区画の仕切りとなる人工の川を渡る橋のことである。

「あれ渡った瞬間さ、急に倒れてさ、それから何度も、痙攣するように身体を、押されるっていうの、押し出されるっていうのか、何か見えない空気玉みたいなもので体をバンバンされてさ、それで死んじまったんだよ、そいつ」

 女は恭平の胸ぐらのポケットからセッターの箱をむしり取った。そして残りの2本を掴んで箱を落とした。唇の真ん中でそろえて咥えて見せて、指をタバコの先で鳴らした。火がついた。ガスコンロみたいに女はぢぢぢぢぢと言った。前髪焼けたとかつぶやいた。

「あー、あれか、それか」

「え、なに、手品」

「これでもうこの街から出られるよね」

「いや、俺が吸わないとダメなんだよ」

「え、いいよもう、私が許す」

「いや、そういうもんじゃないでしょ」

「セッターなにこれぇ、うげぇ」

女はむせ返り、加えた2本を吐き出した。まだ先に煙が立つ2本のタバコは黒くケロイドじみた路地裏の地面にカタカナの「ハ」の字に並んだ。

「いくわよ、映画館」

「え、ちょ、困るんすけど、細切れになるんすけど、血まみれになって死ぬんすけど」

「それ、わたしだから」

「は?」

「わたしがヤったから」

 

 キョウヘイの友人のヒップホッパーはニートTOKYOにも何本か動画が残るその手の界隈では名が売れ始めた男だった。枝野カツアゲcilという全体的にアンバランスな芸名をして半ばノイジーなEDMに性的侮蔑用語を歌詞に載せて活動していた。パーカーの袖をむしり、ズボンの右足の裾を股の付け根まで切り取っているのが彼のトレードマークであった。額には鉤十字を書こうとして左右反転した、つまり地図記号の寺社マークが付いていて、そこから寺に修行しにも行った。キャベツの茎を集めるのが趣味で、鍋いっぱいに集めて煮立てて合法ドラッグを作るんだと言って週に一度キャベツスープのパーティを開いていたが誰も行くことはなかった。キャベツ農家の一人娘が恋人で、いずれ農家を継ぐことになるだろうと一晩で5回戦も生でヤったと自慢げに話していたが、かれこれこの一年で10回はその話を聞いているが未だに妊娠したと聞いていないらしい。誰もが枝野カツアゲcilは種無しだと言っていた。だからみんなして奴の誕生日になると園芸店や百均のレジのそばにある家庭菜園用の野菜の種子を買い揃えてプレゼントする。奴は将来の予習だと住まいである駅近のオフィスビルの屋上に間借りしている小屋で育てているらしいがどれも都市の烏に食い荒らされているらしい。

 そんな枝野カツアゲcilはこの血まみれ女と関係があったらしい。女はわたしが枝野カツアゲcilを殺した。タップルとかいうマッチングアプリで知り合ったと言う。女は透明マント機能を使っているから枝野カツアゲcilを刺し殺しているわたしがあなたには見えなかったといった。あんたは何を言ってんだとキョウヘイは返したが、わたしが視覚化できているってことはあんたもタップルやってんでしょ、お盛りねと笑った。キョウヘイもマッチングアプリをしていた。月額の費用が馬鹿にならないのでやめていた。女はわたしはじんばにヒデユキの彼女のタップルのアカウントだと名乗った。言っている意味がよくわからない。ヤニクラで変な妄想を聞いていると錯覚しているんだとキョウヘイは考えた。女は透明マント機能で地下鉄の切符も映画館のチケットをちょろまかした。キョウヘイは自費で乗り込んだが地下鉄はもう走っていない時間のはずなのに一両編成でふたりを迎えに上がった。上半身は駅員の姿をした女が運転するその車両には京都大学の卒業式の帰りだと豪語する金閣寺のコスプレをした一般男性が13人いた。修行僧の形をした男が焼かねばならぬ!と叫び13人にガソリンをまいてライターを付けたところで映画館のある駅に着いた。駅の改札からそのままスクリーンを隔てる扉が並んだ廊下にはいり、9番の戸を透明マントに身を包んだ女が入った。女は恭平に気を遣って首だけ透明マントから出していた。おかげで生気のある生首が宙を浮いていた。

 席は誰ひとり座っていない。60程度の座席が無機質に静かに並んでいる。女は後ろから五番目くらいの、真ん中に座り、マントを脱ぎ、血まみれのキャミソールも投げ捨てた。全裸でスクリーンを凝視している。キョウヘイが隣に座ろうとしたら他を当たってちょうだいという。一つ上の列の、女から見て左斜め後ろに座るとそうじゃないと言う。この部屋じゃないとこで映画見てよと言う。キョウヘイはよくわからないと呟きながらこれもセッターの呪いもといヤニクラによるものだと向かいの4番シアターに入った。ところが4番シアターの中央の席にもあの女が全裸でスクリーンを凝視している。おまけにスクリーンにはさっきの9番で、全裸でスクリーンを凝視する女が映っていた。キョウヘイはあわてて9番に戻るとスクリーンには4番シアターの女が映っている。あれれと言っている間に女はみるみるうちに画面をはみ出して、ドロドロに溶け出した。そして静かに形を整えて占い師の姿になったり、白石麻衣になったり、橋本環奈になったり、真矢みきになったりして最後にキャメロン・ディアスになったかと思うとパチンと弾けた。9番にいる女は白目を剥いて泡を吹いている。スクリーンには大きくタップルのロゴが映っていて、youtubeの広告でくどいくらい出てくるあの女優の「タップル」と言う声が何度もハウリングして音割れして流れた。キョウヘイは慌てて9番シアターも出て廊下に飛び出すと奥から轟々と燃える人型の金閣寺がぞろぞろ現れて壁を溶かし始めていた。反対側へ進もうとしたら床に草が生えてきて、むしられた草が山盛りになって枯れていた。ほんのりむせかえるほどのタバコの匂いがする。

 その時キョウヘイはグッと草山に向けて引っ張られた。引っ張られたと言うよりかは、まるで掃除機が抜け毛にするように吸い込まれた。つられて人型の金閣寺がすぐそばまで近づいてきた。先の空気が吸い込まれたことで廊下は腐食したように黒ずみ、焼けだし、そして山盛りになった草にも引火した。草の中に突っ込まれたキョウヘイは自身の尻にも火が回ったことを確かに感じたが酸素が進路の先へズンズン吸い込まれているのを覚えた。火は草を燃やし、煙で満たされる。すぐにキョウヘイは煙で肺を満たし、ハイになって死んだ。