おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

増殖するパラレルと失われた時を取り戻せ ー町屋良平「1R1分34秒」

スマホのメモ欄漁ってたらだいぶ前に書いたものが出てきました。どこにも載せてないのでここに貼っておきます。あくまでわたしの所感です。たしか)

f:id:abc27kan:20200914065404j:image

「試合の記憶とビデオの自分の動きとの符号と差異、ありえたかもしれないKO勝ち、ありえたかもしれない引き分け、ありえたかもしれない判定負けを、パラレルに生きる他ないのだ」


 パラレルに生きるとは何か、二者択一とまでならなくとも、至るとこに選択肢の配置された「分岐点」にひとは遭遇する。

 道を誤っても時間の壁で分岐点の地点には戻れない。

 あの時、左に曲がっていればよかったと後悔する。

 もし……ならばという「If」を人は後悔の場面で口にしてしまう。だが常にこれを意識しているわけではなく左に曲がってしまったことに悔やむ時ばかりにパラレルはひらく。代替案ばかりが吹き出す。 

 

 町屋良平の「1R1分34秒」は試合に敗れたボクサーの後悔や反省つまり反復するパラレル増殖に苛まれて物語が始まる。


『こう見直すの、中間距離を耐えてぼくのほうが先に腹を打つべきだったし、ぼくのほうが先にアッパーを見せるべきだったし、ジャブも捨てるパンチに関してはみわけやすかったのだから、左フックを振りながら接近し、練習していた五発までのコンビネーションを打ち込んでいれば、ぜんぜん展開は違った筈だ』


 この部分を見てもらうと分かる通り、ボクサーというのは身体と思考のひとつひとつそれぞれがボクシングという勝負という世界に無数に枝分かれする膨大な量の分岐が、瞬間的に、濁流となって勢いよくなだれ込むものなのだ。

 主人公はこの分岐によって産出するパラレルに負け試合のあとを鬱屈して過ごすが、処理しきれない分岐の連続をパラレルの悪夢へと誘うものとして、試合を振り返るために見ている「映像」がある。ビデオが主人公の外部記憶として、ボクサーのパラレルの素材になって過剰に摂取してしまう。


 物語の後半でやや挑発じみたウメキチの特訓によりこのパラレル地獄で陥っていた『きれいなボクサー』像を打ち砕き、初戦KO勝ちの喜びを取り戻していく。これはある種のパラレルの分岐というより、ひとつ道を選択したことを肯定する瞬間といえよう。


『ぼくはボクサーだから、ボクシングでぜんぶかたをつける』


 終盤、主人公の自宅である安アパートの窓を開け迫ってくる茂る木からライセンスを取った日のことを思い出し、友人のつくってくれた自分のドキュメンタリーであるビデオ映画を見て試合前後の失われていた記憶を思い出す。再三繰り返したパラレル、その分岐の総体、つまりは主人公の足跡の象徴としてこの木は窓を開けて乗り込んでくる。減量の苦悩などの試合前の忘れていた日々を、ボクサーとしての自分をまた敗戦で失いたくない、失いたくないからこそ試合に勝つという選択を決めて、物語はあっけない結果の書き方をして終わる。
 この見出された瞬間にこそパラレルの関係よりも大切な自己の回復がある。