おぺんぺん大学

ざーさんによる本の雑記たちとたまに創作

手段としての知識、手段としての継続

 野暮な人間をしている私だけども、知識を漠然とシャワー状に浴びるほど容量を持ち合わせた人間でもない。知識を溜め込む容量があったとしても、処理能力は人それぞれだろうが、つくづくそれは大学受験だとかの試験ごとで個々人で自らの限界を覚えただろう。いわば暗記などの積み込み型の学習というのは無様なハリボテで、実際は問題を解決するハウツーのようなものを覚えて応用していくというスタイルの方が、処理能力を早める方ができるし、暗記などの時間をかけずに済む。人間の記憶力なんてものに当てにはしていないのだが、きっとどんなことにも法則性はあるのだから(少なくとも人間が発見したもののなかでは)それを叩き込むことが案外近道だったりする。知識が目的になってしまっては案外いけないのかもしれないが、たとえば小説を読むために漢字を覚えるのか、漢字を覚えるために小説を読むのか、言葉を覚えるために小説を書くのか、小説を書くために言葉を覚える、言葉を覚えるためにその都度辞書を引くのか、どっちが目的でどっちが手段か、鶏が先か卵が先かよくわからないどうどう巡りになってきたが、ようは目的のための手段として知識を溜め込むということのほうが、視野は狭まるが、専門的な分野に自らを切り込むのにはごくごく当たり前のことだと言っていい。私は大学時代、文学にのめり込みだったし、卒論だとかサークルの部誌だとかに、いかにして小説を論じたり書いたりすることに、手段としての方法論を蓄えた知識を基に実験していった。小説を書くことに関していえば正攻法で書くのがつまらなかったというのもあるが、逆に言えば正攻法で書かない方法=手段としての知識、つまりは古今東西のさまざまな書き方書かれ方をできるだけ触れることを行なった。論を組み立てる際にも目指すべき結論に行き着くまでのアプローチ=手段として、文学論だけではなく、他の分野の理論を取り込むという手立てをした。

 社会人になって三日目だが、私が就職したところは大雑把な広い分野をめいいっぱい行うようなところではもちろんなく、むしろニッチな、専門的なかなりマニアックとも取れかねない分野での深い仕事をすることになった。製造業界のほとんどはそういうものだろうが、この仕事をするには少なくとも規則や規定、その業界にしか通じない世界、ましてや社内で交わされている業務上の会話でさえ、異国に飛ばされたようなら心持ちを覚える、そんな環境に自らを放り込むことになった。単純に面白そう!って気持ちと、冒頭で書いたような手段としての知識を溜め込み、それを扱うという私の行いがどうも目に止まったらしい。

 自分の得意なあるいは好きな、趣味としてつねに追いかけてきた分野を仕事にできるほど、世の中簡単ではないが、すくなくともそれの手段がこのように活用できる場を発見できたという点で、私の就職活動は案外うまく行ったんじゃないかなと思うのだが、「その仕事をするにはその手段としての知識を蓄える必要がある」という課題は明白だった。案件一つ一つが独自性を持ち、全く同じものは二度と作らない、つねにイチからスタートという業務にいずれ私は携わるだろう。ずはその仕事をこなすための知識を蓄える必要がある。

 高校や大学など、学生の頃は明確な締め切りがあった。まあ仕事にも納期という事柄はあるが、高校も大学も短い。三年や四年で次を決めないといけない、そうした緊迫感と怠惰な時間が共存していた。猶予期間である。初めの一年のうちから次の飛ぶ場所を決めるほど意識の高い人間でもなかったから、だいたい最後の一年で見る前に飛べ!と言わんばかりの自由形で飛び出してうまく行っただけである。案外そんなものが人生なのだろうけど、社会人はそうした転換期というものにルールがない。壊れてしまったり、会社をクビになったり、世の中がめちゃくちゃになっていかない限り、しっかり仕事をしていけば定年までずっと続くのである。まだ始まって三日しか経っていないのにまだ出来ないのか!なんてことはないのだが、これが2年も3年も変わらずじゃマズイのだろうけど、少なくとも65まで挑み続けないといけない社会人として、手段としての知識を継続して吸収していかないといけない。蓄積したものを応用し活用する、そうした反復が右肩上がりの差異を生むのだろう。

 なんのために本を読んでいるの、と本を普段読まないでいる人間から聞かれたとき、わたしはあれなんでだっけってなる前に生体活動だからとふざけた答えをだしていたが、結局は自分が死なないための手段として継続していることで、言い方を変えれば本によって生きながらえさせられていると言っていい。まだ未読の本があれだけある、鏡花全集がまだほぼ手付かずで残っている。翻訳されていないDavid Foster Wallace「Infinite Jest」がある、読むのに時間がかかりそうな長い本「失われた時を求めて」や青年のうちに読んでおきたい「青年の環」や「自由への道」がある。何度読んでもわからない本がある。それだけでもまだ生きて、読んでおかねばと思える本に出会えている。これは幸運なことなのか不運ことなのかわからない。「Infinit Jest」を読むには少なくとも英語の基礎知識を持っていないと長文読解もきっとままならない。高校の頃に洋書を読むという目的を持って英語の授業を手段として取り組んでいたらもう少しサクサク進むのかもしれないが、目的意識を明確にした方が知識の巡りも継続の意欲もうんと違う。案外いまからやるしかない、そうおもって手段として取り組むことを楽しむしかない。